猪原金物店・コラム明治10年に創業。九州で2番目に歴史の金物屋

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その5 13:07
真言宗僧侶・山川龍雲氏の開眼供養には佐仲氏、我ら家族、お向かいの欣喜堂・上田さん家族が立ち会った。
約1時間かかり入念に祈願してもらった。
当店や欣喜堂、上の町、森岳、島原の住民の無病息災と家内安全、商売繁盛も読経の中に読み込まれた。
供養が終わり普段着に着替えた山川氏は僧侶から普段の表情に戻っていた。
佐仲氏に「いや〜、正直言ってビックリしました。初めてなので大した事ないだろうと思っていたら・・・佐仲さん、やりましたねえ!!」
誉めているのかけなしているのかわからない。
この二人は非常に仲が良いが会話はいつも「ボケ、突っ込み」の漫才だ。
その後、我が家で簡単に祝賀会を開き、少しお神酒を呑んだ(般若湯?)。
佐仲氏の制作秘話が公開され大いに盛り上がる。
本来の鏝絵は漆喰に顔料(岩絵の具)を混ぜて作っていくので大変だ。
形と色彩つまり彫塑と絵画を同時にしなくてはならない。
おまけに漆喰は乾燥する速度が速いので即断即決の判断力と作業速度、乾燥した後の色の変化の予測計算が必要だ。
最初に漆喰で形を作り、後から表面を彩色するのなら楽だし誰でもできるかもしれないがそれでは「鏝絵」にならない。
鏝絵は漆喰自体に顔料を混ぜるから年月が経っても色落ちしないのだ。
従って「鏝絵」は彫刻家や画家ではなく左官職人の高度な技術の延長線上にしか存在しないジャンルなのだ。
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その4 15:51
佐仲氏の頭の中で「青龍」の鏝絵の構想が固まったのは2001年の9月だった。
あとは鏝絵の漆喰を塗り込むのに最適な温度と湿度の季節(春か秋)を決めなければならなかった。
店舗の軒の上の不安定な場所で吹きさらしの状況の中、鏝絵を描かなくてはならないのだ。
はやる気持ちを抑え、山川龍雲氏と相談して制作は2002年(平成14年)4月に決定した。
佐仲氏はまず現状の漆喰壁にもう一度薄く漆喰を塗り下地処理を施した。
その後、軒瓦の上に作業足場を設置し、なんと目隠しのコンパネ板を三方向に張り始めた。
理由を聞くと「物が下に落ちないように安全対策と、通行人に観られたり声を掛けられたりして集中力が落ちないように完全に作業現場を密封するため」と答えた。
従って、制作期間(約2週間)は誰も鏝絵を観る事は出来なかったし、どのような行程で鏝絵が出来ていくのか謎に包まれた。
店の軒上に目隠しが2週間もしてあると、やはり人目につきいろんな人達から尋ねられた。
目隠し板に「鏝絵制作中」と看板でも書こうものならまた通行人の好奇心をあおることになるし、仕方ないのでいちいち口頭で説明する事になった。
やっと完成しても佐仲氏は目隠し板を外さなかった。
一体どういう「青龍」の鏝絵が完成しているのか我々もわからなかった。
山川氏に開眼供養をしてもらう事になっていたので山川氏が来ないとお披露目は出来ないという。
それから数日後の夕方7時にやっと山川氏が波佐見町から来られ、佐仲氏が目隠し板を速やかに外した。
「凄い!」「・・・・」
聞きつけて集まってきた人達はその迫力にすぐには言葉が出なかった。
すでにあたりは薄暗くなっていたので投光器で鏝絵を照らす事になった。
山川氏は真言宗の正装に着替え、お経をあげ開眼供養が始まった。
添付写真は鏝絵用の鏝。
兵庫県三木市の卸問屋・螢潺筌韻亮卍垢福岡県田川市の鏝絵名人・山倉筑山(ちくざん)氏と協同でメーカーに作らせた特注品。
当店に展示販売している(24000円)が、まず売れることはないだろう。
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その3 15:35
佐仲氏は当店には「龍」と構想を固めていたそうで、彼の熱意にほだされ即座に賛同した。
翌年の2001年の9月に大分県「安心院(あじむ)」の鏝絵を見学に行こうという事になり、佐仲氏をはじめ波佐見町の僧侶・山川龍雲氏や福岡県大川の家具作家・大淵夫妻など7名で湯布院を通って安心院に行った。
江戸、明治、大正、昭和といろんな時代に作られた鏝絵が点在し、町が発行している「鏝絵マップ」を頼りに車で移動しながら見学していった。
モチーフは鶴、亀、富士山、鷹、鷲、龍、虎、七福神、松、竹、梅、月などバラエティーに富んでいる。
安心院からの帰りの車の中で感想を述べ合った。
「漆喰壁に漆喰で鏝絵を作るのだからあまり原色系の強い色は避けたほうが良い。表面をペンキで塗ったと勘違いされるし漆喰の質感が色で打ち消される。淡い色彩だと壁の白と調和するし漆喰の質感も出て上品だ。」などなど・・
その後、佐仲氏と山川氏が当店の漆喰壁を眺めながらかなり長い時間協議した。
鏝絵の位置や方式を話し合っていたが、まず山川氏が参考の下絵を描くことになった。
横長の和紙に二枚、龍の下絵を描いてきた。
それを佐仲氏が観て一旦、心に落とし佐仲氏独自の龍を描くという行程になった。
驚いたのは、安心院やその他の既存の鏝絵と異なり平面の壁に絵画のように鏝絵を描くのではなく、壁を3次元空間ととらえ、龍が壁から飛び出たり、壁に潜ったりするようなスタイルとアイデアが出た事だ。
添付写真は山川龍雲氏が描いた鏝絵の参考下絵・「青龍」。
山川氏は陶芸家で画工でもあり精緻な迫力のあるリアルな龍の絵を描くが、今回は非常にコミカルで抽象的なほのぼのとした龍である。
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その2 18:21
平成13年の9月に左官の佐仲忠敏氏が「この店の漆喰壁に鏝絵を描かせて欲しい」と頼みに来られた。
佐仲氏は平成10年に速魚川や当店を作ってくれた左官で、小生より1歳年上になる。
彼の話では18歳の時、口之津で初めて鏝絵を観て虜になり、30年間左官の仕事をしながら独学で鏝絵の研究をし構想を練ってきたが、実際に鏝絵を描くチャンスがなかったのだ。
時代の流れで建築様式が変わり、土壁や漆喰壁の仕事も既存の建物もほとんどなくなった。
おまけに長崎県には鏝絵の文化はあまりないので県民の認知度が低く、鏝絵を描こうなどという「変わった」人はまずいない。
佐仲氏の左官としての評価は非常に高く、弟子志願の人も多いらしいが彼は弟子をとらない主義だ。
鏝絵の申し出に小生は喜んで承諾した。
「ところで何を描くつもりですか?」と質問すると、彼は「龍」と答えた。
内心、驚き少しうろたえた。
「龍」の持つイメージがあまりに強烈過ぎて当店のような古い地味な店に合うのか心配になった。
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その1 14:30
「鏝絵(こてえ)」をご存知の方は多いと思う(?)。
しかし実際に見たことのある人は少ないかもしれない。
漆喰壁の家がほとんどなくなりつつある現在の日本ではなかなかお目にかかれない。
そもそも「鏝絵」とは江戸時代に「伊豆の長八」と呼ばれた左官名人が漆喰壁に鏝でレリーフ(浮き彫り状の立体絵画)を描いたのが起原とだ言われている。
漆喰壁が日本建築に多く使われるようになったのは、数度に及ぶ「江戸の大火」つまり大火事で江戸幕府が防火の為に奨励したからだ。
それまで民家の壁は板壁がほとんどで、いったん火事になったら江戸の町のように人口密集地帯(江戸の人口は当時世界一だった)はすぐに延焼し「大火」になった。
防火材として土壁や漆喰壁を施し、財力のある商家はそれに加え軒上に「うだつ」まであげて延焼を防いだ。(もちろん「うだつ」が上がらない財力のない家も多かった)
「漆喰」は石灰(炭酸マグネシウム)と海草糊と麻の繊維に水を混ぜて作るが、空気中の炭酸ガス(二酸化炭素)を吸って硬化し、壁材として塗ると数百年は大丈夫だ。
その漆喰壁に施す鏝絵は石灰、貝灰、ふのりを混ぜて岩絵の具(日本画の顔料)で色をつけ、鏝で塗っていく。
「伊豆の長八」に始まる鏝絵が全国の左官達に広まったのは江戸、明治時代で特に、大分県の安心院(あじむ)、玖珠(くす)、日田には現在も数多く鏝絵が残っており、全国に千数百箇所あるといわれる。
付写真は昨年4月に当店の壁に完成した「青龍(せいりゅう)」の鏝絵の一部。
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