その5

2004.05.23 Sunday

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    「いや、・・・あ、あの・・・ちがうんです。つ、釣りに来ててですね・・・その・・何ていうか・・・潮が干上がって・・・・え〜と・・その・・・船がですね・・・・」、そこまで話すのがやっとだった。
    漁船の間に、場違いなプレジャーボートがポツンと「置いて」あり、小さなデッキの脇に、釣り竿が2本ほど立ててあるのを、やっとの思いで指差した。
    しばらくの沈黙・・・・。
    【200年前になあ、お前さんの先祖が住んでた山が地震で崩壊した時、うちの先祖はその津波でほとんど全滅しちゃったんだよ。お前さん達も大変だったろうよ。でも、自分で選んで住んだ土地だろう?こっちはそんなこと知るもんかい。知らない間に、あっという間にだよ。だから毎日仕事が終わると、こうしてお前さん達の方を監視してるんだよ。なにも好きで見てるんじゃないよ。】
    「・・ああ、釣りで来らしたとですか。」と住民の一人が答えたが、それ以上は何も聞かなかった。
    状況を見れば、おおよその見当はつくからだ。
    彼等の脳裏に何が去来したか?考えないように努めた。
    計り知れないほど愚かなそして恥ずべき二人(それもよりによって島原の住民)が、無表情で潮の満ちてくるのをひたすら待っている。
    やがてあたりが暗くなり、満ちてきた海水は船を次第に浮かせ始めた。
    午後8時を優に過ぎていた。素直に嬉しかった。これで島原に帰れる。
    しかし、暗闇になった海上では船のスピードは上げられない。
    海面の浮遊物(例えば丸太など)に激突したら終わりだ。
    巡航速度を守り、懐中電灯で船の前方を照らしながら用心深く島原を目指した。
    「実は、今日は結婚記念日だったんです。」と石橋氏。「え!?・・・。」、
    「夕食は親子3人で外で食べようと約束してたんですが・・・」、
    「・・・なんで早く言わなかったんだよ。」、
    「言っても、どうしようもなかったでしょう。」、
    「奥さんと佳世ちゃんに申し訳なかったねえ・・・・悪か事ばしたねえ・・・。」、
    「何ば言わすとですか。もし、自分達が遭難して死んどったら、それどころじゃなかったでしょうもん?こうして無事に生きて帰りよっとやけん、嫁ごに感謝こそされても、恨まれる事はな〜んもなかでしょ?」
    無茶苦茶な論理だ。自分中心に地球が回っている(!?)。
    彼の奥さんの苦労は想像に難くない。
    来た時の2倍ほどの時間をかけて、やっと島原の船着場に到着した。
    時刻は午後9時半を過ぎており、駐車場には石橋氏の奥さんと娘さんが迎えに来ていた。
    散々謝罪し、石橋家とはその場で別れた。
    疲労困憊でうちに帰ると、「馬鹿じゃない!?」と家内が笑い転げた。
    30分ほどして石橋氏から電話があり、「今、炉端焼きの飲み屋に来てるとですが、猪原さんも来ませんか?」との誘いの電話だった。
    彼の奥さんが気の毒がって、気を遣ったらしい。(石橋が気を遣う訳がない。 決して、絶対に!)
    もちろん疲れを理由に断ったが、本当に長い一日だった。
    「今日の事は、絶対に人に言うなよ。」、「当たり前でしょうが、もしヒコ(釣り仲間の中村和彦氏)なんかに知れたら、島原中の笑い者ですばい。」
    二人はその日の出来事を、【生涯の秘密】にしようと堅く誓い合った。
    それから一週間ほどして、釣り仲間5人とフェリー乗場の岸壁に夜釣りに出かけた。
    釣り始めて1時間ぐらいしてから、仲間の一人が、「猪原さん達は、最近有明海一帯でえらい派手に立ち回っちょらすそうですねえ?有名か話ですよ。」と含み笑いを浮かべて囁いた。  
    「エ!?・・・何のことですか?」と、必死でとぼけたが、「大変だったでしょう?」とニコニコしている。
    誰だ〜!!!?バラしたの!!?

    その4

    2004.05.20 Thursday

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      数年後に、その漁村が熊本県宇土市の、ある漁港である事が、偶然に判明したのだった。
      真夏の晴れた日に、知らない漁村で、男同士、8時間も何の目的もなく過ごす事が決定的になって、最初は混乱したりうろたえたりしたが、次第にその現実を受け入れるようになっていった。
      井伏鱒二の有名な短編小説「山椒魚」はご存知の方も多いだろうが、あの小説に登場する川エビと同じ心理状態になっていたのだろう。
      川底の穴に入り込んだ山椒魚は、その穴から抜け出せなくなり、焦燥苦悶する。
      偶然に迷い込んできた川エビを、自分と同じ状況に陥れようと、穴の入り口に自らの頭で栓をする。
      川エビは、山椒魚の行為とその了見を非難する。二匹は永遠と罵倒し合う。
      そのうちに川エビが、力尽き死にそうになった時、山椒魚は反省し自らの行為を詫びる。
      川エビも、山椒魚をゆるして息絶える。確か、そんなストーリーだった。
      「船を迂回しすぎたけん、こんな事になったとやろが!」「猪原さんが、岡に上がって飯ば食べようて言わんやったらこげん事にならんやったとに!」・・・惨めな男達の愚かな責任転嫁がしばらく続いた後、「・・・・で、何をする?・・・あと7時間もあるとばい」、「少し歩き回ってみようか?・・・」、二人でトコトコ歩き始めたものの、観光地でも歓楽街でもない普通の小さな生活圏である。間が持てるはずもない。
      小さな雑貨屋で缶ビールを買って、日陰に腰掛けて呑むが、【酔わない】・・・・お互いにとりとめもない話をダラダラ話しているが、こういう時は時間が経たないのだ(!?)。
      漁村の隅から隅まで、まるで刑事みたいに丹念に歩き回ったので、同じ事を繰り返す意欲はすでになかった。
      そのくせ、夢遊病者みたいに時々漁港にもどり、有り得ないのだが、潮が満ちてきてないか確かめるという意味のない行為を繰り返すのだった。
      干潟になった有明海に延びる防波堤の先端まで行き、コンクリートの日陰になった床に寝転がって空を見上げた。
      宇宙が見えそうなくらいの澄みきった深いブルー・・・・「なんで、横にいるのが若い女じゃなくて、猪原さんなんやろか・・・・」、「・・・・オレも同感よね・・・・」。
      中年の女性達が防波堤の横を何やら話しながらぞろぞろと沖に向って歩いていく。
      一年に一回の「馬鹿潮」なので、日頃は海面下の行くことの出来ない場所で貝堀りができるからだ。
      一時間ほどしたら、その女性達が帰ってきた。
      見ると手に持った各々のバケツには、化け物みたいな大きな貝(20cm位)が山ほど入っている(!?)。
      「俺達は最初から間違っとったとやろねえ・・・・熊手と長靴とバケツば持ってきとけば良かったとに・・・」。
      干上がった防波堤に寝転がっている二人の男を指差し、何やら話しながら港の方向に帰っていく。
      こういう時は、視線を外して「死んだ振り」をするに限る。
      「そこで何をしているのですか?」と聞かれでもしたら、万事休すだ。
      夕方の6時には、待ちきれなくなり、漁港の「陸揚げ」された船の前の階段に腰掛けていた。
      少しづつではあるが、沖のほうから波と一緒に次第に海水が近づいてきた。
      「早く来てよ! 早く!」「長かったよね〜、ほんと」とか話していると、どこからともなく地元の住民の人達が、港に集まってきはじめた。
      見ると、ほとんど全員が手に双眼鏡を持っている。
      「今、落ちた火砕流は赤松谷方面に向うちょる。今日は崩落の頻度が多かごたるばい。」
      一人の年配男性が解説を始めた。
      島原や噴火災害の事を熟知しているらしく、他の人たちは双眼鏡を覗きながら「ほう!!」「あらら・・・」とか言葉を発している。
      彼らのまん中で、小さくなって我々は一体何をしているのであろうか?・・・情ないやら、恥かしいやら、とにかく、消えたいと思った。
      そのうちに住民の一人が我々に気づき、「あんたたちゃあ、どこから来らしたと?」と聞いてきた。
      「あ・・いえ・・あの・・・し、島原から来ました・・・」、同時に全員の視線が、我々二人に注がれた。
      「島原てよ・・」「へ〜、島原からてや?」ざわめき始めた。
      そのうちの一人が、慈悲深く、丁寧な口調で、「避難して来らしたとですか?」・・・・【とどめ】だった。
      何も答えられなかった。(次回に続く)

      その3

      2004.05.10 Monday

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        覗いた双眼鏡の先に、寂れゆく趣のある漁港が映った。
        「あの漁港は雰囲気あるよ。 あそこに行こう。」
        沖に向って長く延びた防波堤の突端には、粗末な蛍光灯がついた鉄製ポールが立っており、その漁村が現在ではけっして裕福ではない事を物語っていた。
        防波堤の間を200m程進んでいくと船着場があり、10隻ほどの小さな漁船が係船してあった。
        「ここは熊本の何処らへんだろうか?・・・まあいいか・・・とにかく飯ば食べようで。」
        漁船の間に船を入れ、ロープで固定して陸に上がった。
        日陰を探して、漁師小屋の裏に回ると、丁度いい感じの藤棚があり、そこで弁当を広げた。
        漁港の正面に遠くくっきりと島原半島や普賢岳が見える。
        「ここは、200年前の噴火災害の時、津波でやられたとやろねえ・・・さっき、船着場の横に津波避難訓練の立て札のあったばい。」
        200年前の噴火災害の時は、直下型地震の為に、現・島原市の背後にそびえる眉山が大崩壊を起し、一挙に有明海に山体の土石がなだれ落ち大津波が発生した。
        島原で一万人、対岸の熊本地方で5000人の死者が出た。
        「島原大変、肥後迷惑」と現在も言い伝えられている。
        弁当を食べ終わって、やっと本来の目的であった「釣り」に意識が向き始め、「よっしゃー!!いざ、口之津だ〜!」と二人は船着場に急いだ。
        船外機式の小型のレジャーボートには、チヌ用の餌や撒き餌などがどっさり積み込まれている。
        今日こそは絶対に大物を釣るぞ〜!!で、・・・海がない!?
        あれ?・・・海に浮いてた船が地面に置かれている・・・・どこに逃げちゃったのかなあ、海・・・・
        見ると、200mほど沖まで海がない。
        だって、ご飯食べた時間、わずか40分ほどだよ〜・・・・
        こんな時、人間は【わかりきった事】を他人に確認したくなるらしい。
        地元のおじさんをつかまえて、「あの・・・次に潮が満ちてきて、漁港の船が出せるまで何時間ぐらいかかりますかね?」
        おじさんは怪訝そうな顔をして、「そうね、夜の7時か8時ぐらいやろ」と答えた。
        当たり前だ・・引き潮ではあるが、まだ干潮でもない。
        真夏の正午、小生も石橋氏もまだ30代の【健康な】男性だった・・・・・。
        世界で一番干満の差が大きい海はどこですか?。「有明海」です。
        では、有明海で一年を通じて、一番干満の差が大きい日、通称「馬鹿潮」と呼ばれる日があります。その月は何月ですか?。8月です。
        では、その「馬鹿潮」の日に、よりによって遠浅の海岸にある漁港に、他所から来て無謀にも一時停舶する人達を世間では何と言いますか?
        そんな人は人類史上いなかったし、【ありえない】ので、答えは、ありません。
        「素晴らしく晴れた釣り日和の」真夏の正午から夜の8時まで、其処がどこかもわからない漁村で、男同士二人っきりで過ごす事がどういうことなのか?・・・・理解できなかったし、お互いに妻子持ちながら、経験も心の準備もなかったので正直言って、どうしたらいいのか不安だった。(次回に続く)

        その2

        2004.05.09 Sunday

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          一年以上振りの更新になるのか・・・・・。
          釣りに狂っていた熱い日々の思い出・・・・。
          チヌ釣りにハマっていった人たちを多く知っていたが、まさか自分がそうなろうとは思ってもいなかった。
          そして人に話せないような恥かしい多くの失敗・・・・。
          ゴールデンウィークの疲れがドット出てきた。
          今日は雨も降っているし、戦闘モードから優しい思い出モードに切り替えて、たそがれてみようかなあ・・・・・。
          噴火災害が始まって2年目の暑い夏だった。
          釣り友達で小型船のオーナーだった石橋裕隆氏とふたりで、島原外港フェリー乗場の裏手にある船着場を、口之津に向けて出航したのは、すでに午前10時半を過ぎていた。
          他の釣り友達と異なり、石橋氏と釣りに行く時はなぜか真剣さが消え、遊び感覚になるから不思議だ。
          海岸線に沿って約一時間ほど船を走らせると、目的の口之津湾に到着する。
          ところが当時、火砕流が次第にその流下距離を延ばしつつあり、このままいくと、水無川(むずなしがわ)の河口まで到達するかもしれないと言われ始めていたのだ。
          フィリピンのピナツボ火山の例では、河口まで流れ落ちた高温の火砕流は、海水に到達すると水蒸気爆発を起し、多大なる船舶への被害をもたらしたのだった。
          船舶関係者にはすでに、水無川の河口から半径約2km四方の海域を、船舶で航行することを禁じる通達が来ていた。
          「迂回して行きましょう・・・・でも、半径2キロってどれくらいやろかねえ?・・・まあ、適当に廻ればよかとでしょう・・・」
          このアバウトさ、いい加減さが、その後のとんでもない事態を招くことになるとは、その時の二人には知る由もなかったのだ。
          船を操縦している船長の石橋氏は、例によって鼻歌を歌い始めた。
          小生は、双眼鏡で普賢岳を見ている。
          「・・あ!  火砕流が落ちたぞ!けっこう大きがばい・・・きれーいに見えとるぞ・・・・海から見るとまた違うとやねえ。」、「どりゃ、どりゃ、私にも見せてください。操縦ば代わってよ。」とかやっているうちに、次第に船は有明海の中央を越え、対岸の熊本の方に寄っていったのだ。
          太陽はすでに真上にあがり、雲ひとつない青空と頬にあたる心地よい海風にすっかり二人は「酔って」しまい、目的の釣りを忘れていた。     「ああ・・腹ん減ってきた・・・昼飯ば食べましょか?・・・」、「そうねえ・・・対岸が近こうなったけん、どこか漁港があったら、係船して陸で食べようか?」と、ピクニック気分だった。

          その1

          2003.02.19 Wednesday

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            平成10年に当店を改装し現在の形態にする前までは釣りにはまっていた。
            最近は釣りには行かない。
            いや、行けないと言ったほうが正解かもしれない。
            ・・・・哀しい。
            で、このコラムで釣りの想い出を綴りながら欲求不満を解消したい。
            わが森岳地区は海がすぐ近くにあり、徒歩で10分も歩くと猛島海岸や長浜海岸がある。
            小さい頃からこれらの海を遊び場所にして育ったといっても過言ではない。
            猛島(たけしま)海岸には30年ぐらい前まで海水浴場があり、中学生までは夏休みは毎日と言っていいくらい泳ぎに行っていた。
            猛島海岸の南側に続く長浜海岸には同級生と時々釣りに行っていた。
            組み立て式の竹竿に釣り糸をつけガンダマ(小さなおもり)と釣針だけの簡単な仕掛けで、餌は海岸でとったゴカイというミミズだった。
            リールなんてまだ買えるほどの小遣いももらっていなかった。
            それでもハゼやモチノイオ、ベラ、ユダンペ(メゴチ)、カワハギなどが面白いように釣れていた。
            当時の有明海は魚貝類の宝庫で日本でも有数の豊かな海だった。
            中学生になり小遣いを貯め投げ釣りの竿とリールを買った。
            ついでに釣りの本も買い仕掛けの研究にはまった。
            同級生に漁師の息子がいて何度か手漕ぎの舟で釣りにも行った。
            櫓(ろ)を漕がせてもらったがなかなかうまく前に進まない。
            同級生はいとも簡単に櫓を操り舟はぐんぐん進んでいくのだ。
            同級生でありながら全く違う世界を持っている大人に見えて言葉には出さなかったが彼を尊敬した。
            高校時代は叔父と一緒にバイクで深江町の海岸まで夜釣りに行った。
            カーバイト(アセチレンガスのランプ)を海岸で焚いて、電気ウキの仕掛けで投げ釣りをした。
            セイゴ(スズキ)やアジ狙いだ。
            餌は主に岩虫(ミミズ)を使ったがせいぜい1kg前後のセイゴしか釣れなかった。
            叔父は数キロのスズキを時々揚げていた。
            アジは群れでいるので当たり始めたら入れ食い状態で面白いように釣れ、しばらくするとピタリと釣れなくなる。
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