猪原金物店・コラム明治10年に創業。九州で2番目に歴史の金物屋

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「人」その12 11:47
ここ数年来、どうしても会いたかった人物にやっと会うことが出来た。        添付写真の人物で、元・長崎県立島原高校教諭・高木繁幸氏(74歳)である。     現在、瑞穂町の自宅で郷土史の編纂(へんさん)に精力的に取り組んでいる、小生がもっとも尊敬する恩師のひとりだ。

 高木先生には、30数年前に島原高校で、日本史を習った。    成績は悪かったが、何かと可愛がってもらった記憶がある。     教壇では笑顔を絶やさず、飄々(ひょうひょう)として、歴史の流れと自分自身の解釈を織り交ぜながら語られる先生だった。    

 大人になって、自宅の仏壇の引き出しから、桐箱に入った「家計図」なる巻物を見つけ、開いてみると、別の封筒に家計図作成にあたっての経緯と、協力していただいた人物の名前が記されていた。      そこに、島原高校教諭・高木繁幸先生の名前を発見したのだ。     亡祖父・健一と高木先生は、猪原家の先祖のルーツを調べるために、まず岡山に出向き、そこから過去をたどりながら全国を回ったものと思われる。(恐らく、高木先生がまだ30代後半、亡祖父が50代後半の頃だ)

30数年振りにお会いした高木先生は、白髪頭になられてはいたが、まったく当時(40歳代)の情熱を保たれたままで、人生の残された時間を「島原藩の歴史」の研究と本の出版に捧げたい旨を語られた。    そして、「ここで、猪原君に会ったのも何かのご縁です。   今月、出版したばかりの第一集・【島原藩の仕組み】を、仏壇のおじいちゃんにあげてください。」と、バックから一冊の本を取り出して手渡された。

 「何度か、肺気腫で倒れ、救急車で運ばれたので、いつ死ぬか分からない。   40年以上かかって研究、収集し、調べ上げた資料は全て揃いました。    あとは、第二集と第三集を編集、推敲(すいこう)して出版すれば、僕の仕事は終わりです。    あと、一、二年で完成です。   もしもその間に、僕に何かあっても、島原藩史を研究をする人にとって、貴重な資料はすべて残していますので、大丈夫です。」

 小生は、郷土史に命を掛けられている高木先生の情熱と迫力に圧倒された。   このような素晴らしい先生から、授業を受けられたことに感動した。    「先生、僕は日頃、日本の歴史をあれほど大きく変えた【島原の乱】が、どうして今まで、映画やテレビでちゃんと取り上げられなかったのかと、考えることがあります。   乱を、単なる農民一揆や、キリシタンと仏教徒の宗教戦争だと、単純に解釈するのではなく、当時の外交も含めた政治(国や藩)、経済、文化、宗教、哲学など、多面的に検証すれば、NHKの大河ドラマにも出せる凄いドラマが出来ると思うんですが・・・・・」と、問いかけてみた。

 「そうだね。   今、国や県が推進しようとしている三位一体の改革や市町村合併の問題、地方の生き残りの課題などを考えた時、【島原の乱】前後の藩史や国史に、今日的テーマやヒントが隠されていると思うんだよ。」     【乱】という言葉は、平常な状態を乱(みだ)す、壊すという悪いイメージで使われてきたが、その革命行為が成就しなかったから、体制を支配(勝利)した側が、結果としてつけた名称である。      平常、つまり常識や体制、システムには当然、耐用年数があり、いつかは【乱】が起きる運命にある。     その革命行為が成功した場合を、改革、改新、維新、などと呼んできただけだ。 

 小生は、日頃、密かに「しまばら未来塾」塾長・市川森一先生(日本放送作家連盟・会長)に、近い将来、「島原の乱」をテーマにしたNHKの大河ドラマを書いて欲しいと勝手に思っている。    その時代考証のためには膨大な歴史資料が必要だ。     島原の乱に関する歴史書や資料は、世の中にごまんとあるし、市川先生も所蔵されていると思うが、地元の郷土史家達の詳細な資料(新説、新発見も含めて)を、市川先生にお渡しすることが出来れば、そして、もし、大河ドラマが実現すれば・・・・・長崎県や島原半島はどうなるだろうか?・・・・

 21世紀は、文化や歴史、自然が「経済」を作り出す時代になるという。      各種メディアやインターネットなどの情報の波は、国境を越え、世界中に有史以来の大改革を起こそうとしている。      従来の「常識」が瞬間に消え、産業構造だけでなく、国家体制ですら崩壊する事態も実際に起きている。 

 高木先生は、いつもの飄々とした風情で「あとの本が出来たら、また持ってきますから」と言って帰って行かれた。    この人の半生を掛けた「作品」を、絶対に無駄にしてはならない、と後姿を見ながら思った。  
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「人」その11 11:41
長崎市寺町にある「東明山 興福寺(こうふくじ)」は、元和6年(1620年)に中国の南京から渡海した禅僧・真円によって創建された、黄檗宗(おうばくしゅう)の有名な唐寺(とうでら・「赤寺(あかでら)」ともいう)である。

 当時、わが国の臨済と曹洞の禅宗は、その方式正伝が衰退し再興が望まれていた。   中国では、福建省黄檗山の万福寺が臨済宗の代表的な道場として活動しており、そこの住職として禅界に重きをなす隠元禅師の名声が日本に伝わってきた。    そこで日本の禅僧達は、隠元禅師の日本招請を願い、長崎の三唐寺(興福寺、崇福寺、福済寺)、特に興福寺三代目住職・逸然禅師の強い働きかけで、承応3年(1654年)に隠元禅師は63歳という年齢ながら渡海し、興福寺の住職として、また日本黄檗宗の開祖として迎えられた。

 隠元禅師は、その時「インゲン豆」を日本に伝えたという。    興福寺の有名な「普茶料理(ふちゃりょうり)」も隠元によるものとされている。    もともと中国の禅僧によって建立された寺であり、中日折衷の珍しい建築様式なので、国の重要文化財や県の指定文化財に指定されている。     それから350年の歳月が流れ、現在の住職は32代目になる(9代目住職までは中国人の禅僧だった)。

 添付写真の人物は、黄檗宗・東明山・興福寺の32代目住職・松尾法道氏である。
 
 松尾住職との出会いは7年前(平成10年)にさかのぼる。    茶道、華道、会席料理の「花滴庵(かてきあん)」を主催する早稲田佳子先生が、速魚川ギャラリーのオープニングセレモニーの一環として、小生が主催したコンサートに住職を連れて来られてからの付き合いになる。    それからは、公私共にいろいろとお世話になりっぱなしである。

 学生時代はアメリカ留学も経験されており、高校の英語教師を経て、32代目住職に就任された。    茶道の師範で、「普茶料理」の継承者でもあり、その高い見識と教養から、あちこちに講師として招かれ、多忙な日々を送られている人物だ。

 興福寺に行かれた人は多いと思うが、中国明朝時代のたたずまいがそのまま残っており、350年前にタイムスリップした錯覚をおぼえるほどだ。    しかし、松尾住職の理念は、寺院の保存や継承だけにとどまらない。    「本来のお寺の役割は、檀家の法事などの為にだけあるのではなく、檀家以外の一般大衆や地域社会への貢献にあると思います。  もっと世の中に開かれた寺にならなければなりません。」

 興福寺が執り行う伝統的な年中行事は非常に多いが、それ以外にもコンサートや茶会、各種文化イベント、ファッションショーまでどんどん企画し実行している。   「文化財は大切にしなくてはならないが、遠巻きに眺めるものではなく、現代社会に有効に活用していかなければ意味がない。」というスタンスは、松尾住職から学んだ事だ。

 松尾法道氏のことを周りの人達は「ご住職」、「松尾先生」と尊敬の念を込めて呼んでいるが、小生は「和尚(おしょう)」と呼んでいる。    非常に失礼だとは思うが、早稲田先生の呼び方がそのままうつってしまったようだ。    頭脳明晰で、時には辛らつな批判もされるし、人の世話もよくされ、ユーモアのセンスも抜群なので、つい甘えてご無礼なことを言ってしまう。     

 長崎にとって松尾住職の存在は、興福寺以上に大切なものだと、小生は認識している。   興福寺の「方丈の間」では、中庭を眺めながら美味しいお抹茶(菓子付き600円)が頂ける。     さあ、みなさん、「興福寺に行こう!」
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その10 13:34
山本美子(よしこ)・・・・・小生にとって、甘く切ない響きだ・・・
本日、われらがマドンナ・美子姉ちゃんが、旦那の山本正興氏(KTNチーフ・プロデューサー)とシーボルト大学の教授とフランス人の学生の男3名を引き連れて、久しぶりに当店を訪れた。
知的で、美しく、迫力があって、恐ろしい・・・・「借りてきた猫」状態の3名に、小生が1名加わり、彼女の周りに侍(はべ)った。
美子姉ちゃんは、現在、長与町のシーボルト大学の前にある「カフェ・ド・ジーノ」のオーナー兼店長さんだ。
美子姉ちゃんと旦那の山本正興氏は、小生と同じ昭和29年生まれ(馬年)で、学年はひとつ上になる。
武蔵野美術短期大学を卒業後、テレビ長崎・KTNに入社、同テレビ局の山本正興氏と知り合い、結婚後退社。
子育てと平行しながら、いろんな活動を続ける。
無農薬有機農法の作物を、生産から販売まで手掛けるグループの中心になったり、美大出の特技を生かし、店舗のコーディネーターやデザイン、ポップ書きなどの仕事をしたり、絵画を描いたりと、その才能をいかんなく発揮し、情熱を燃やし続けてきた女性だ。
山本正興氏と12年前に知り合ってからのお付き合いになる。
ところが偶然とは恐ろしいもので、美子姉ちゃんの父君(佐世保市在住、税理士)と小生の亡くなった父は、お互いの独身時代に、島原で親しく飲み歩いていたらしい。(父君の税務署勤務時代)
父君に小生のことを話したら、「エ!?・・・猪原が死んだてや!!」と驚かれたという。
時代が時代だったら、「お前の娘ば、うちの息子の嫁にどがんじゃろか?」とかで、ひょっとしたら、親同士が決めた見合いをして夫婦になっていたかもしれない。
そして、無能な夫として、今と同じく「・・ったく!うちの旦那は!」と言われているだろう。
平成10年に速魚川ギャラリーを開設して、第一号の作家展は、山本美子氏の絵画と熊本県宇土市の梅田幸子氏の陶器の「二人展」だった。
山本美子氏は、その豊かな感性と才能でいろんな「野の花」(アクリル画)を描いて反響を呼び、島原でも多くのファンを作った。
悩み、苦しみながら命を削るように作品を描いていくタイプで、野の花の自然の息遣いに、観る人は感動する。
平成11年の第二回「二人展」を最後に、山本氏の運命は大きく転換した。
「風花(かざはな)」の社長・石原氏から、「シーボルト大学の前に、草木に囲まれた花屋とカフェを作りたい。是非協力して欲しい。山本さんの思い通りの空間と店を造って下さい。」とオファーがあった。
彼女は、そのオファーを受け、この数年の間に県内でも屈指の素晴らしい空間とカフェとギャラリーを作った。山本氏は「自分が行きたくなるような店を作っただけ」と言う。
「映画が、自分のエネルギー源」というほどの無類の映画好きであり、映画評論家だ。
長崎まで行く機会があったら、少し足を伸ばして長与町のシーボルト大学前の「カフェ・ド・ジーノ」に行ってみよう。
美味しいコーヒーや料理、山本美子の素敵な笑顔とトークが楽しめる。
でも・・・・小生の愛した画家・山本美子はいなくなった・・・・・当店にも、ジーノにも、彼女の絵が現在も飾ってある。
「野の花」の絵、是非観てください。
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その9 13:17
添付写真は、美術刀剣・鑑定士の松井更生(こうせい)氏。
一昨年前にコラムで少し紹介したことがあるが、このたび、「第4回 美術刀剣展」を再び、速魚川ギャラリーで開催する事になった。
平成10年、店の改装や速魚川ギャラリーを作った年の5月に、「第一回 美術刀剣展」を開催してから、もう7年の歳月が流れた事になる。
平成10年から12年まで、連続して3回開催されたが、松井氏の退職を期にその後3年間は開催されなかった。
松井氏は国見町多比良(たいら)に住まれている。サッカーで有名な国見高校のすぐ近くだ。
もともと自衛隊出身で、大砲を扱っておられたという。
「大砲を撃たせたら、私の右に出るものはいません」と冗談を言われていたが、自衛隊を定年退職後、島原の金融機関に入社、真面目で明朗闊達な人柄は、多くの人望を集め、仕事の成績も常にトップを堅持し、島原半島には彼を慕うファンも多い。
松井氏の生き甲斐と道楽はただ一つ、「美術刀剣」である。
「世界中にはいろんな刀剣がありますが、その完成度の高さから言うと、日本刀に勝るものは存在しません。刀剣の世界で芸術品と呼べるものは日本刀だけです。」と言い切る。
「しのぎを削る」、「付け焼き刃」、「鯉口を切る」、「懐刀(ふところがたな)」など、我々が日常使っている日本語に【かたな】からきた言葉が多いのは、日本の歴史や文化に刀剣が与えてきた影響がいかに大きかったかを物語っている。
展示会場は、【かたな】の有名な産地が、国内に五箇所あった事(大和、山城、相模、備前、美濃)や、製作された時代で「古刀」、「新刀」、「新々刀」、「現代刀」に区分される事、刀身は砂鉄を原料にした「たたら製法」による玉鋼(たまはがね)で作られる事、などの初歩的な知識から、よりマニアックな刀匠たちの伝統技術や、【かたな】を通じて日本の歴史や文化の深い部分を知る絶好のチャンスの場だ。
「鎌倉期から現代までと銘打って美術刀剣展示会を実施してきましたが、今回は財団法人日本美術刀剣保存協会の鑑定書付きの名刀を主に展示し、日本刀が日本伝統の文化財であることを知ってもらう意図のもとに開催されるものです。日本人が大切にしてきた刀剣を通じて日本人の誇りである【もののふの心】を歴史とともに鑑賞していただくことを願うものです」松井更生。
ゴールデンウィークの最後の頃、5月2日(日)、3日(月)の二日間に開催される。(朝9時から夕方6時まで。もちろん入場無料。)
ちなみに松井氏は70歳(古希)を超えていらっしゃる。(!?)
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その8 10:56
神出鬼没、ヤンバル・クイナ、イリオモテ・ヤマネコ・・・・我々は彼のことを色んな表現で呼ぶが、とにかく、すごい距離をあちこち飛び回っていて、なかなかつかまらない、連絡のつかない人なのである。
「花畠龍雲」・・・・四年前に長崎市の童画家・前田秀信氏と福岡の創作人形師・本田宗也氏が速魚川ギャラリーで歓談していた時に、波佐見町の陶芸家・吉野炎龍氏が彼を連れて来訪し、紹介されたのが初めての出逢いだったと記憶している。
きびしい修行を積んだ正式な真言宗の僧侶である。
そのことを最初から知らされていなかった小生は、花畠氏のことを水質調査の専門家であり、陶芸家で画工、そして、美術刀剣の悪い因縁を解決する不思議な人という認識しか持たなかった。
非常に気さくで楽しく面白い人なので、つい簡単に親しくなってしまったのだ。
花畠氏も我々一般人の前では決して宗教家としての顔を見せなかった。
彼の純粋で優しく繊細な精神と豊富な知識、そして何より、その卓越した絵画の才能に魅せられて、たちまちファンのひとりになってしまった。
このコラムでは何度か登場した人物だが、「青龍の掛軸」、「鏝絵の開眼供養」、「仏壇の移転」、と我が家の重要な場面には、なぜか絶対に立ち会ってくれている。
真言宗の教えや流儀は全くわからないが、お経をあげる際には、我が家の宗派である日蓮宗の法華経(ほけきょう)や神道の祝詞(のりと)もいっしょに読経してくれるのである。
真言宗は空海が開祖であるが、チベット密教と深い関係があり、数年前に3名でチベットの山奥まで出かけたらしい。
現在、中国との関係が深刻で、ダライ・ラマ14世はインドに亡命して、チベット亡命政府をつくっている事はご存知だと思う。
ダライ・ラマは世襲制ではなく、「輪廻転生(りんねてんしょう)」により、次の継承者は幼少の頃から決定する。
それは、国境、人種、性別、身分などの関係なく、多くのチベットの高僧達の厳格な儀式と予言によって選ばれる。
実は、現在のダライ・ラマ法王(14世)の次の継承者(15世)が、すでにチベットの山奥の寺院におられるのだ。
そして、彼は皮肉にも、チベットを弾圧している側の中国の国内におられたらしく、(つまり中国人)彼をチベットに連れてくるために、チベット、中国双方で銃撃戦による多くの死傷者が出たという。
花畠氏はその新たな継承者と謁見しなくてはならない、何らかの理由があったらしい。
連れの二人は、アメリカ人と日本人で、チベット密教の信者だったらしいが、危険で険しい山道を徒歩で登り、目的の寺院に着いて、継承者との謁見を待った。
わずか10分ほどの謁見で、アメリカ人の信者は、なんと足腰が一時的に立たなくなり、あとの二人に支えられて階段を下りたという。
継承者である中国人の若者(十代)は、長身で端正な容姿、穏やかで慈悲深い笑みをたたえながらも、彼から出ているオーラは凄まじかったと、花畠氏は述懐している。
花畠龍雲は、お寺を継ぐことを拒絶し、在家(別の職業を持ち生活を支える)して、多くの人たちを救うために昼夜を問わず駆けずり回り、自分の命を架けている。
それが自分の宿命であり、生まれてきた理由だと言う。
高潔であり「悟り」の境地に達しているのだろうが、小生との会話はボケと突っ込み、下世話な話に終始する。
彼が小生のレベルに合わせているとしたら、小生とは一体なんなの?・・・・・・・
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その7 21:42
専門誌に「今、放送業界で一番危険な男」として紹介されたことがある。
テレビ長崎・KTNのチーフ・プロデューサー・山本正興(まさおき)氏がその人である。
平成4年の「We love 九州」の取材を受けてからのお付き合いだから、もう11年目になる。
今ではお互い、いい中年になって「い〜さん」「マー坊」と呼び合う仲だ。
学年は小生より一つ上だが、同じ昭和29年生まれ(奥様の美子さんも)という、いわば「戦友」みたいな親近感がお互いにあるからだろう。
KTNはフジテレビ系列だが、毎年「ドキュメンタリー大賞」という地方局も含めたドキュメントの作品コンペをしている。
フジTVも含めた数あるローカル局の優秀な作品から、たった一作だけ大賞が決まる。
審査員は映画監督、作家、学者などが厳密かつ公正に選考する。
わずか45分の作品であるが、山本氏の作品は段突の満場一致で、大賞つまりグランプリを獲得した。
そして反響を呼んだ「母の肖像」という作品は、国内にとどまらず、その後ニューヨークでも上映されることになったのだ。
猛烈な読書家であり、身の回りのすべての事に問題意識を持って接し、妥協せず努力を惜しまない。
謙虚であり、大胆な行動派、人生の達人、哲学者・・・とにかくいろんな形容ができるが、雲泥の差がある小生とは{恐妻家}という唯一の共通点があるのだ。
長崎市内の定時制高校を取材したドキュメント「夜間高校」は、音楽とドラマとドキュメントの3部門の中から毎年どれか一つしか選ばれないという「児童福祉文化財」に指定された。
ドキュメント部門が選ばれたのは、NHKや民放を含めて初めての快挙で、おまけに民放は、過去にドラマ部門で倉本總の「北の国から」が獲っただけで、あとは毎年すべてNHKが独占してきたのだ。
「九州の民放に山本あり」と謳われ、数々の賞歴に輝いてはいても、彼の作品創りにおける苦悩を知っている人は少ない。
一つの側面から取材を開始しても、最後は社会の根深い問題に絶対ぶち当たるからだ。
「夜間高校」もサブタイトルは「居場所を見つけた子供達」というショッキングなものだった。
しかし、このドキュメントの中で本当に居場所を見つけたのは、大学受験校の進路主任を長年してきた校長だった。
彼は教育者としての最終の時期に「定時制高校」を選ぶが、そこで皮肉にも初めて教育に目覚める事になった。
定時制高校に通ってくる子供達にいろんな事を教えられ「一体、今まで自分は教育者として何をしてきたのか?」自問自答する。
卒業式の当日、校長は感極まって、周りもはばからず涙を流し、心の底から泣いた。
ドキュメントなのに、まるでドラマトゥルギー(作劇術)を駆使した{芸術}にまで高めてしまう緻密で巧妙なテクニックと深い見識、知性、包み込むような愛情・・・・
業界では別れ際に「今度、いい娘を紹介するから!!」と言う習慣らしいが、「いや〜、参ったよ。そのディレクターから電話があって、山本さん、いつその女の子を紹介してくれるんですか?って真剣なんだよね。ハハハハ・・・」。
いつまでも元気で軽率な中年でいようね、がお互いの合言葉だ。
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その6 20:47
添付写真は現在、速魚川ギャラリーで作品展を開催中の陶芸作家・内田有二氏である。
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その5 20:27
アメリカンインディアンとハワイアンと日本人の血を持っている音楽家であり友人のパティオ・イカウィ氏が久し振りに来訪。
彼は14歳から歌手としてデビューし、約30年間ステージに立ってきた骨の髄まで音楽志向のミュージシャンなのだ。
彼の音楽人生は波乱に富んでいる。
現在の国籍は日本だが、育ちはハワイ、若い頃の音楽活動はアメリカであった。
アメリカで絶頂の頃はラスベガスであのサミー・デイビス・ジュニアと共演した事もあるという。
日本の福岡に拠点を移し、ハワイ、アメリカ本土を行き来する音楽活動を始めた。
バブルの時代だったので自分の音楽事務所を持ち、専属マネージャーもいて外車を何台も所有するほどになった。
しかし得意の絶頂期もバブルの崩壊で終わった。
2億円の借金、離婚といきなりどん底に落とされ「地獄」を見ることになった。
「すべてを無くし、どん底に落とされた時、初めて自分は音楽が好きなんだと気づかされた」
中古のランドクルーザー車に楽器、PA(音響機材)、ステージ衣装、生活用品すべてを積み込んで、歌わせてもらえる国内のすべての場所に出向いて行った。
お金が払えないという老人施設にもボランティアで歌いに行き、自分の歌に喜んでくれる観客がいることを、心からうれしく思ったという。
4年程前に福岡の友人の彫刻家と島原を訪れ、偶然に当店を来訪し、それから時々交流するようになった。
速魚川ギャラリーでいっしょに晩飯でも食べようということになり、たまたま居合わせた地元の友人達を囲んで、いきなりミニコンサートが始まった。
ギター、ウクレレ、パーカッション、エレクトーンとなんでも演奏でき、どんなジャンルの歌も完璧に歌いこなす。
ジャズ、ハワイアン、演歌、ロック、ニューミュージック、童謡・・とその場でリクエストした曲を優しく繊細に、時には激しくダイナミックに歌いまくる。
分厚い胸板と鍛えぬかれた喉から出てくる声と声量は、日本人には到底、真似は出来ない。
音質はエルビス・プレスリーを連想させる。
全身これエンタテナーで「セクシー」という言葉がぴったりだ。
借金も完済し、最近では地道な音楽活動が功を奏して、「笑っていいとも」など中央のTV業界にも活動範囲を広げ始めた。
しかしいろんな制約を要求してくる中央のプロモーションの指示には従いたくないと彼は言う。
「自分の原点はやはり音楽であり、組織がらみのビジネスオンリーではない。
お金のためにやりたくない仕事までやる必要はない」と言い切る。
地獄を見てきた人間にしか吐けない言葉だ。
2日前まで韓国でステージをこなしてきたばかり。
現在、CDを出すための曲づくりに追われている。
今回は大人の曲ではなく、NHKの「みんなの歌」のような曲を作りたいそうだ。
ところが作詞が苦手で、「子供が書いたあどけない詩を誰か提供してくれないでしょうか?」と言っていた。
パティオ・イカウィ・・・彼の音楽を聴きたい人達の所へはどこでも出かけていく律儀でパワフルなナイス・ガイだ。
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その4 13:27
金物屋を四半世紀(25年)以上やってきたら、取扱商品が約15万アイテム(種類)あろうと大体の内容はわかるようになる。
各メーカーや問屋の商品カタログの内容はこの25年間に驚くほど変わってきた。
消費者のニーズ(需要)に応えるため、各メーカーは必死で商品開発を繰り返し、毎年恐ろしいほどの新商品がカタログに加えられ、同時に時代に合わなくなった商品はことごとく消えていく。
「カタログ」はその時代の流行や世情を反映した{鏡}でもある。
公園や公共施設、道路などの公共の場所に設置するベンチや東屋やオブジェや水呑み場などを専門に扱うメーカーのカタログがあり、本物まがいの義木、義石、義竹などの大量生産可能な「規格品」がズラリと並んでいる。
役所はその中から何の疑問も理念もなく無造作にピックアップしてそれらの「製品」を図面に載せていく。
そして全国どこへ行っても「金太郎飴」みたいに同じ公園や公共施設と出くわす。
「恥かしくないのですか?」「誇りはないのですか?」と言う問いかけで済まされる問題ではない。
「田舎の住民の美意識なんて知れてるからこの程度のベンチやオブジェで良いんだよ。」
「最近のメーカーの既製品もあながち馬鹿にはできないからね。」
「安全規格と低予算とメインテナンスの問題を考えるとこれくらいが妥当です。」
いちいちもっともな理由のように聞こえる。
結論から言うと「従来の常識を疑ってかからないと、既得権益を得た立場の人間も危ない時代ですよ」という事だ。
公共の場には大量生産の「製品」はなるべく使用しないで、地元作家の手作りの「作品」を使用するほどの誇りと信念を持つべきなのだ。
カタログの製品は{流行}を追っている傾向が強いので、いずれカタログから姿を消すか陳腐化するが、作家の作品は本人の感性と個性を通過した「普遍性」を持つので時代が変わっても光りつづける。
個人も企業も地域も個性とオリジナリティーを持たないと生き延びれない時代に突入してしまっている。
「本物」しか残らない厳しい時代なのだ。
前節が長すぎたが添付写真は地元作家で彫刻家の野島泉里(せんり)氏と自宅の庭の制作現場。
彼の前にある制作中の石のオブジェは今月中に森岳のわが上の町・「哲学の小径」に設置予定の作品。
石はアフリカ産の「ベル・ファウスト」という非常に硬い黒色の石材だ。
灰色に見えるのはまだ表面の研磨が100番ぐらいの粗めで全体のフォルムを整えている段階だからである。
最終的には1200番ぐらいの鏡面仕上げになり黒い光沢を帯びてくる。
それ以上に研磨の光沢を上げると黒御影石の「墓石」みたいになる恐れがあるので、1200番で止めるということらしい。
市役所からの請負金額はわずか数十万円。
その内の石材に数十万円。
野島氏の制作日数を考えると日給数千円。
市役所職員の五分の一以下の給料だ。
だから若者はみんな公務員を目指し、決して芸術家にはならない。
「アーティストは食べていけない」が一般常識だからだ。
野島氏に「給料」とか人並みの生活とかの概念は最初から無い。
彼の価値基準(生き甲斐)は作品を創作している瞬間にあるからだ。
いつもは柔和な眼をしているが,石と格闘している時の野島氏の眼は獲物を狙う猛禽類の鋭い眼に変化する。
数年前にアメリカ・カリフォルニアから夫婦で帰ってきたばかりだ。
奥さんのマーサも彫刻家だが、ここ数年は地元小中学校の英語教師をして生活を支えている。
島原に住む彫刻家二人、つまり島原にとって貴重な「絶滅危惧種」を我々は絶対に絶滅に追い込んではならない。
オブジェのフォルムは「道祖神]にも見えるし、男性的であり女性的だ。
水が波を打っているようにも見える。
野島氏の作品は観る人にどんどん想像力をかき立てる特徴を持つ。
オブジェのずっと後に立ってこちらを見ているのは久しぶりに島原に来た中村秀一先生。
8月からサモアに出発予定だ。もう日本に帰って来ないかもしれない・・・・
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その3 12:45
添付写真の爽やかな”イケ面”のハンサムボーイは日本放送協会、略して”天下のNHK”にこの4月に入社し、NHK長崎放送局に飛ばされてきた石原ディレクター(25歳)。
東大の大学院を出たてのインテリなのだが、ディレクターとしてはまったくの”素人”と言っていいかもしれない。
彼が当店に来た理由は、7月3日午後6時10分からのニュースの取材のためであった。
初仕事として彼に与えられた放映時間はわずか3分30秒。
石原氏は取材の下調べのために、島原鉄道に乗ってリュックを背負い3回ほど島原を訪れた。(車を買うお金もないしNHKから車も貸してもらえないらしい)
テーマは「島原と水」。
企画書(構成)を書くのも初めてで上司のOKをなかなかもらえず随分苦労していたようだ。
ところがこの若者、不思議な魅力を持っており、要領はまだ悪いが、探究心旺盛で素直、大胆で荒削りだが「大物」の片鱗を感じるのだ。
聞くと東北・福島県の平原で育った自然児で、そこら辺の都会ずれした要領のいい小手先だけの若者とは器が違うようだ。
鍛え方次第ではダイヤモンドになりうる原石だ。
あとは経験と失敗を繰り返しながら成長していくしかない。
いくらエリート意識が鼻につくNHKとは言いながら日本を代表する逸材や作品を多く輩出した超一流{企業}なのだ。
一流のものをどんどん吸収して、本物の実力を身につければ出身校や所属ブランドを振りかざすしか能のないくだらない人間達を尻目に、イチロー選手みたいに単身大リーグに行って活躍できる人材になるかもしれない。
このコラムをご覧の皆さん、3日(木)午後6時10分と翌4日(金)朝7時からのニュースを観てやって欲しい。
一人の新米ディレクターの処女作・3分30秒。
石原氏にとっても一生忘れられない初めての公共電波に乗る自分の作品である。
がんばれ若者!!オジちゃんも応援するからね。
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