その2

2003.07.24 Thursday

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    家具作家・上田長次郎氏は新しい仏壇を制作するに当たり、是非お寺の住職と会わせて欲しいと言った。
    不受不施派は、お曼荼羅(まんだら・「南無妙法蓮華経」と書いてある巻物)さえ掛けられれば良いので、簡単な仏壇でも構わない(低予算でもあるし)と言っても承服しない。
    島原市立第三小学校の敷地内にある妙高寺(1888年建立)の日量上人に会うため、6月中旬に上田氏と我が夫婦3名で出かけた。
    上人は心地よいほど単純明快に仏壇について説明をしてくれた。
    上田氏は「これで腑に落ちました」と納得し、早速制作にかかり、7月初旬に新しい仏壇が我が家の居間に設置された。
    仏壇は黒色で統一され、不受不施派の仏壇らしく無駄な装飾は一切省かれ極めてシンプル、質実に出来上がっていた。
    上田氏は曼荼羅を収める正面ガラス戸の開閉方法や下部の収納扉などの説明を丁寧にしてくれた。さすがである。
    このようなシンプルな仏壇は日本広しと言えどもあまりないだろう。
    ギャラリーの仏壇の抜魂供養をして即座に、曼荼羅や五具足などの仏具を自宅の新しい仏壇に移動し収納。
    その場で入魂の供養をしてもらった。
    これでご先祖様の魂は新しい仏壇に収まった。
    お題目を三唱、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・・・

    その1

    2003.07.23 Wednesday

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      猪原家の仏壇は現在、速魚川ギャラリーにある。
      本日、その仏壇を自宅に移転することになった。
      当店の母屋(現在の金物店やギャラリー、中庭の部分)は1861年(江戸時代末期)に建てられた。
      2年前の夏に長岡造形大学・宮澤智士(みやざわさとし)教授と同大学院の学生達による島原の町屋建築の調査が行われ、昨年の2月に報告書が提出された。
      テーマは「島原の町屋建築におけるキリシタン弾圧の影響」。
      結論として島原市内の民家は仏教徒の「証(あかし)」として仏間を玄関や店に隣接して設置したところが多く、他の地方には見られない建築様式だという。
      これは当時の島原地方のキリシタン弾圧がいかに厳しかったかを物語っている。
      そして、やはり我が家の仏檀も店から覗ける位置にあるのだ。(以前にも書いたが、正月の注連飾り{しめかざり}を年中、玄関に飾っておく島原地方特有の風習もキリシタン弾圧の名残りだ)
      猪原金物店の初代・猪原信平(のぶへい)が岡山県井原市から島原に単身でやって来たのは明治時代(1866年以降)になってからだから、その時期すでに現在の母屋はできていて、仏壇も今の位置にあったと思われる。
      猪原信平はキリシタンと同様に明治維新まで非合法であった日蓮宗不受不施(ふじゅふせ)派を九州に広めるために、噴火災害やキリシタン弾圧の歴史を持つあえて危険な島原を選んでやって来たものと思われる。
      母屋ができたのは1861年だから、仏壇は約140年以上今の場所にあり、宗派は持ち主でかわったが、代々家族の心のよりどころとしての役目を果たしてきた事になる。
      では、なぜ今頃になって仏壇の位置を移動するのか?
      先にも述べたように本来、仏壇は家族の住んでいる居間の近くにあるべきものであり、必要以上に他人に覗かれる場所にあるべきではないのだそうだ。
      キリシタン弾圧が終わった明治維新からすでに140年が経過しており、現在の位置にある”必然性”がなくなった事と、もし仏壇に先祖の魂が宿っているとしたら現在の子孫(家族)のそばで寝食を共にし、いろんな厄災から守護したいと願っているはずだからだ。
      以上の事を今年の2月に友人の真言宗の僧侶から提言され、お寺(日蓮宗不受不施派)のご住職に相談したところ、全くの同意見だった。
      母や家内や弟も同じ意見だった。
      早速、家具作家の上田長次郎氏に仏壇の制作を依頼した。
      添付写真は本日の正午、抜魂(ばっこん)の供養をご住職の日量上人にしていただく直前の仏壇。
      約140年間の仏間の役割は今日で終わった。
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