「劇団立芸ミニOB会・2012 in京都」に参加

2012.08.10 Friday

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    6月24日の九州大雨被害を心配した京都の立芸OB・ジンタン(山村氏)からお見舞いのメールが届いた。 ついでに8月4〜5日にミニOB会を開催する情報も添付してあった。 関西地区在住のOB中心に毎年ミニOB会を開いているという。 小生や同期のジンタンが一年生の時の4〜3年生の先輩達が中心メンバーである。

    生が入団した年の本公演は宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』、翌年の本公演はアルブーゾフの『イルクーツク物語』だった。 この時の主要メンバーの劇団OBである。 当時の二十歳前後の人達が40年の歳月を生き延びて還暦60歳で集う。 凄いことである。 前回参加してから17年ぶりになるが、今回是非参加してみようと思った。


    70年安保闘争の影響を受けた先輩達に「シラケの世代」と言われた我々新入生が入団した。 巷では井上陽水の『傘がない』や吉田拓郎の曲が流れていた。 肩まで伸びた髪の毛、ベルボトムのジーンズにTシャツ、下駄履きが学生達の一般的なスタイルだった。

    そんな時代にこの学生劇団は命がけで芝居創りをしているいわば軍隊みたいな集団だった。 今回集まった12名のOBの一人・アコちゃんは『グスコーブドリの伝記』の演出だった。 二人つく演出助手が誰だったか覚えていないが、とにかく迫力があった。 総勢50名ほどのアグレッシブでロジカルでパワフルな人間達を統率するのである。 

    その公演の2週間ほど前の緊迫状態の中で「こんな時期にマージャンをした人がいます! 舞台監督のユタンポ。 あんたナニ考えてんねん!!」と全員集合した場でアコちゃんが怒りをぶちまけた。 張り詰めた空気が流れ、沈黙が続く。「制作! ユタンポはチケットを今何枚売ってるの?」 「エ~と・・・15枚です。」「ノルマが30枚なのにまだ15枚か? どないすんの!? しかもアンタ舞台監督やろ? みんなに示しがつかんやないの!」 アコちゃんは“はんなり”のイメージを持つ生粋の京女である。

    まだ10代で新入生のジンタンや甲子園(田中氏・故人)や小生は、この“総括”めいた修羅場に戦慄を覚えていた。 「えらい劇団に入ってもうたなぁ・・・いまさら辞められへんし、どないしょう。」と途方に暮れるのだった。 後で知ったが舞台監督のユタンポとマージャンをしたメンバーに甲子園も入っていたらしい。 公演体制時はマージャンもご法度の超ストイック集団・劇団立芸。 この事件がトラウマになって小生は4年間マージャンをする事はなかった。
       
      


    今回の参加者であるホウショウ、英チャン、ダン、マチャアキ、ブンブン、ジンタン、ムツゴロウ、アコちゃん、ユリッペ、ミドリ、マコチャン・・・・と、4年間あだ名で呼び合う決まりだったので相手の正式な氏名を知らない人もいる(!?)。 関西在住のミニOB会の幹事は英チャンとダンがしていたが、今回からジンタンに引き継がれた。

    同期生のジンタンは2年前に東京の会社を退職して京都に移住。 現在、京都検定1級を取得し京都市観光協会に勤務している。 今回のOB会のスケジュール調整や段取りをすべて担当してくれた。 誠実で聡明、強い信念とユーモアを持つ学生時代から一番信頼を受けている人物である。 お疲れ様、そして楽しいOB会を有難うございました。


    OB会、同窓会など過去一緒に交流した人と数十年ぶりに会うと、日常は忘れていた当時の記憶が突然、フラッシュバックのように甦ることがある。 また、完全に忘れていた出来事を相手が憶えていて教えてくれることで、欠落していた記憶の断片が繋がり当時のシーンが鮮明に甦ったりする。

    上の写真は先輩のマコちゃんとミドリ。 小生が2年生の時、本公演『イルクーツク物語』で主人公・ワーリャを見事に演じたのが当時4年生のミドリさん。 小生は相手役のセルゲイを演じることになった。 役者としての才能、力量、経験で雲泥の差があり、随分彼女に迷惑をかけた。 

    ワーリャとセルゲイは結婚するのだが、セルゲイは事故で死ぬ。 キスシーンがあり、本番の舞台で本当に唇を重ねた時の事を話すと、ミドリさんは「ウ~ン・・・記憶にないわねぇ」とそっけない返事。 彼女は現在、ある企画会社の社長である。 37年前に『イルクーツク物語』の舞台づくりに命をかけた戦友の一人・・・・


    OB会は翌日の昼食後に解散した。 ホテルで朝食を済ませ、幹事のジンタンが「清水寺の成就院が現在、特別公開しているので行ってみましょう」とみんなを誘導した。 「日傘が壊れた〜」というユリッペの傘を見ると不思議なマークが印刷してある(下の写真)。

    「なに? これ? ふなきかずお・・エ~!? 歌手の舟木一夫?」「ちょっと! 写真撮らないでよぉ 恥ずかしいから」と言って、教員を退職した現在も舟木一夫のファンクラブに所属しており、今も追っかけをしている事を告白した。 ヒッヒッヒ・・ブログでばらしちゃった。 還暦過ぎてもユリッペの熱い青春は健在なのだ。 堪忍え、ユリッペ先輩。 
     
















     

    その9

    2003.12.30 Tuesday

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      わずか4年間の劇団生活で、小生の価値観はほとんど決まった、と言っても言い過ぎではない。
      「観客に感動してもらう」ことが至上の喜びであった。
      人は食欲、物欲、性欲という基本的な欲望から、社会的な地位欲、名誉欲、金銭欲、独占欲・・・と数えたらキリがない欲望(108の煩悩の数と同じ欲望があるらしい)を持っている。
      しかも、金銭欲に至っては動物と違い限度がない。
      社会人となり、家庭を持ち、店を経営している以上、それを維持していくためにはお金が必要である。
      最大の喜びが「相手に歓んでもらうこと」という青臭さや奇麗事だけでは、生きてこれなかったはずだ。
      その間に多くの苦い経験や葛藤があり、姑息な世渡りの術(すべ)や、多くの人たちの助けがあって、なんとか今まで生きてこれた気がする。
      しかし、最近、従来の社会的な常識が覆ろうとしている。
      「物分りの良い顔をするのも、そろそろ卒業したら?」と別の自分や、死んでいった友人達がささやき始めたのだ。
      島原に帰ってから、商店街、町内会、消防団、青年団などの活動を通して、地域社会には充分に馴染み、噴火災害後は「まちづくり」に奔走してきた。
      昨年1月からは「人権擁護委員(任期3年)」もやっている。もう・・・いいだろう。
      人には随分遅れをとったが、そろそろ自己実現の段階、「わがまま」になってもバチは当たらないだろう。
      劇団立芸では「組織論」なんてやらなかったが、活動自体が「組織論」だった。
      全員の名前を「あだ名」で呼ぶことで、先輩後輩や男女の区別概念や意識をなくすのだ。
      区別意識を無くすことで、共通目標の「より良き芝居」を創るための平等で有利な土壌が出来上がる。
      「あいつは年下のくせに生意気な発言をする。」とか「言いたかったけれど、先輩達の前だから・・・」とかなると良い芝居は達成できない。
      士農工商、男女差別、家父長制度、年功序列などは廃して、替わりに「循環式の役割分担制(ロール・プレイング)」をすることで、団員全員のオール・ラウンドな能力開発が進む。
      役者をしていた人間が演出も舞台監督も照明も制作も出来るようになる。
      一人のカリスマ的存在はいない。いつでも代替え出来る個人レベルと体制なので、組織は崩壊しない。
      おまけに、事にかかる前(公演)には全員で徹底した討論を重ね、個人間の温度差をなくした共通認識(テーマや舞台構想など)が生まれているから、安心して分業体制に入れるのだ。
      この体験は、青年団や地元で作った劇団「楽屋(がくや)」や、まちづくりに生かされたような気がする。
      「今、なぜ、このようなことをしているのか?」を常に考え、納得しておかないと「滑稽」なことになる。
      そして、世の中に「滑稽」なことが非常に多いことに気づかされる。
      ともあれ、劇団立芸の記録はこの回で終わりたい。
      自分が直接、芝居作りで接したメンバーのあだ名だけを挙げてみると・・・・ユタンポ、キリヒト、マチャアキ、エーチャン、ダン、ユリッペ、アコチャン、ブンブン、ボッチャ、マコチャン、セッチャン、スケサン、アヤチャン、ミドリ、クラッチ、ユー、ヒコイチ、クニチャン、ゴンベ、アカズキン、シーチャン、エッチュウ、モリモリ、ネコ、コウシエン、ジンタン、ムツゴロウ、キミドリ、チッチ、ホンブ、カワラマチ、フラッペ、ギンバエ、ナベチャン、トロイカ、ユーサン、ヤスベー、ドロンパ、キタロウ、アカベー、バケツ、オリーブ、ドングリ、ミルキー、アイチャン、ヨノスケ、ポッキー、サーヤ、ツルコー、ハーマン、サザエ、ルビー・・・・・・う〜ん、数え切れない・・・・・
      この9回に及ぶ劇団立芸の断片的な記録を、すでに亡くなった団員(クニチャン、コウシエン、ナベチャン、ハーマン)に贈る。

      その8

      2003.12.25 Thursday

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        劇団立芸がやっていた芝居は「新劇」というジャンルの演劇である。
        これは、戦前の日本に社会主義思想が根付き始め、ソビエト連邦(現在の主にロシア)の演劇の影響を受けて生まれたものである。
        宇野重吉や滝沢修、千田是也、杉村春子などを中心にした、民藝や俳優座、文学座の3大劇団を核に60年代から大きなうねりになってきたのだ。
        従って、川上音二郎や貞奴、松井須磨子、築地小劇場を作った土方与志、小山内薫などの「新劇」が支流だとしても、モスクワ芸術座のスタニスラフスキー・システムが完全に国内で熟成してから、つまり戦後からが「新劇」であると、小生は勝手に思い込んでいる。
        しかし、立芸で新劇を知った頃は、すでに唐十郎の「状況劇場」、寺山修二の「天井桟敷」、ベケットの不条理劇、別役実、つかこうへい、安部公房などの芝居が注目を集め始めていた。
        「新劇」つまり、京都労演以外の違ったジャンルの芝居も貪欲に観に行った。
        そして、心のどこかで「新劇」に対し、少し物足りなさを感じ始めていた。
        特に文学座の「欲望という名の電車」のブランチ役・杉村春子や、山本安英の会の「夕鶴」のつう役・山本安英を実際に舞台で観た時、「もう引退して欲しい・・・」と思った。
        確かに、演技力は凄いと思ったが、いくら演劇史に残る名女優とはいえ「ブランチ」や「つう」を演じるには年齢的にかなり無理があるし、この二つの役の根底にある、女の情念やエロチシズムを感じ取るには、観客側にかなりの「想い込み」が必要であった。
        また、それを許している「新劇」という世界と観客に、どこか気取った{権威主義}を感じてしまった。
        7月になると、学生時代最後の12月本公演の戯曲候補がいくつか出揃い、小生が推薦していた「アディオス号の歌」(秋元松代・原作脚本、民藝公演)は落選し、「さぶ」(山本周五郎・原作)に決定した。
        小生が演出をやるという話が出たが、やはり最後は役者で終わりたかったので辞退した。
        演出は同期のチッチ(石合隆子)、舞台監督は3年生のドングリ(上田満男)に決定。立芸では初めての時代劇だった。
        「さぶ」の主人公は「栄二」と「さぶ」と「おすえ」の3人。
        小生は「栄二」役をする事になった。
        二幕物で約3時間の舞台であるが、「栄二」は出ずっぱりである。台詞の数だけでも膨大な量であった。
        9月から稽古に入り、12月公演までの約3ヶ月間で完成させなければならない。
        時代考証、山本周五郎の研究、テーマ討論、舞台構想、役作り・・・・やらなければならない事が山ほどあった。
        また、長い台詞をマイクも使わずに、客席の最後列まで充分聞こえるように、一息で話してしまうには、相当な体力と腹筋、腹式呼吸を使った舞台特有の発声法など、多くの技術が要求された。
        江戸の表具職人に見習い奉公する「栄二」と「さぶ」。
        勝気で仕事の出来る「栄二」と、のろまで泣き虫の「さぶ」は、幼馴染でお互い貧しい境遇ながらも深い友情で結ばれていた。
        仕事での失敗が多く、棟梁や兄弟子から叱咤され、くじけそうになる「さぶ」を励ましながら、「栄二」は将来、独立して日本一の表具職人になり、「さぶ」といっしょに仕事をしていくことを目標にしていた。
        まわりの期待を一身に集め、勤勉で責任感の強い”エリート”の「栄二」に、やがて大きな挫折と運命の転機が訪れる。
        小説のタイトルを「栄二」ではなく「さぶ」にしたところに、山本周五郎の人生哲学と作品のテーマが隠されている。
        「栄二」が「さぶ」や女房の「おすえ」、その他の人々を支えて生きているように見えるが、実は逆、あるいは相互の信頼や愛情の強い絆で{生かされている}事に気づかされる。
        ラストシーンで「栄二」は、初めて「さぶ」の存在の大きさに気づき、心底感謝し、自分の思い上がりを悔やむ。
        どんなに一芸に秀でている人間も、所詮、一人では生きていけないということだ。
        「どん底」(マキシム・ゴーリキー)のサーチンの有名な台詞で、「 に・ん・げ・ん・・・こりゃあ、たいしたもんだ!・・・」という件(くだり)がある。
        どん底の舞台は、落ちぶれた人間達が集まった木賃宿である。
        アル中のサーチンは、男爵や役者や泥棒や錠前屋や病人に向かって、「人間賛歌」を語る。
        過酷な労働や環境から人間を解放する発明、例えば電気や内燃機関や機織などを発明するためには、何百万人、何千万人に一人の天才が必要である。
        その天才の発明で、人々の暮らしは格段に向上する。
        しかし、その天才を生み出すには、何千万人かの平凡な人間が必要である。
        従って、どんな「人間」でも大切にしなくてはならない。
        呑んだくれや落ちぶれた人や病人であろうと、すべての「人間」は必要なのである。
        「人間」というのは、とにかく素晴らしいものである。
        ・・・・・・とかいう内容であった。
        「さぶ」と「どん底」には共通のテーマ・人間賛歌が流れているように感じられる。
        黒澤明監督の映画に、山本周五郎の原作が非常に多いのは、山本作品に人間に対する深い洞察と愛情と哲学が巧みに取り入れてあるからだと思う。
        添付写真は、「さぶ」の舞台の中盤、濡れ衣を着せられて罪人となり、人足寄場(にんそくよせば・今の刑務所)で、社会不信、人間不信に陥っている「栄二」役(右側)の小生。

        その7

        2003.12.23 Tuesday

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          学園祭の前夜祭(当時、法学部と文学部があった広小路学舎・今出川)と後夜祭(理工学部、経済学部、経営学部、産業社会学部があった衣笠学舎・衣笠)は、収入のない貧乏劇団にとって絶好の、「資材確保」のチャンス日だった。
          100軒以上も並ぶ出店に使用されるベニヤ板と角材は、舞台や看板を作る人間にとってヨダレが出そうなお宝だ。
          学園祭で酒に酔い、男女の恋が花咲いたりしている頃、我々はセッセと出店担当者や祭り実行委員会をまわり、終了後の廃材の確保に追われるのだ。
          前夜祭が終了すると、出店がいっせいに撤収作業にはいる。
          40数名の劇団員は手分けして回収作業にあたり、借りてきた大型リヤカーにきれいに並べて積載する。
          数百kgになったリヤカーを、10数km先の衣笠学舎まで京都御所を横切りながら、みんなで運搬する。
          倉庫への収納作業が終わるのは真夜中0〜1時過ぎ。
          「これで、またしばらくは舞台が作れるね・・・」疲労の中で安堵感と情熱が生まれる。
          お陰で、学園祭の楽しみを一度も経験しなかった。
          4年生の春になると、6月公演が「海を見ていたジョニー」(五木寛之・原作、瓜生正美・脚本)に決定。
          新入団員が何も知らず無邪気に、またどっと入ってくる。
          4年生は雲の上の人、神様みたいな存在になっている。しかし、それだけ責任が大きくなるということだ。
          ジャズというジャンルに全員が取り組み始める。演出グループがジャズの必読本を数冊指定した。
          「ジャズ・カントリー」、「奇妙な果実」・・・
          テーマ音楽はビリー・ホリディーの不朽の名曲「レフト・アローン」。
          今度は迷わず、キャストを希望した。ベース弾きの健さん・・・脇役ながら渋い役だった。
          キャストが決定し、小生はクチヒゲを伸ばし始めた。
          聴く曲はジャズばかり。行くところはジャズ喫茶かジャズのライブハウス。
          フォークソング世代だから、ジャズがまだピンと来ない。
          小説家の五木寛之氏に上演許可の申請を出したところ、サイン入りの本が10冊ほど送ってきて「頑張ってください」とのコメントも添えてあった。
          俳優の仕事で「正当化」という項目がある。
          舞台上で起こるすべての事は、あらかじめ緻密に計算され、正当化されていなくてはならない。
          役者は、不用意に両手を挙げても、その行為の理由を即座にちゃんと正当化する能力を身につけておかねばならない。
          どんなに稽古を積んでいても、本番の舞台では何が起こるかわからない。
          しかし、舞台上で予定以外の「事故」が起きた場合、絶対に観客に悟られてはならないのだ。
          ごまかす、とっさの技術が「正当化」であるが、「海を見ていたジョニー」の本番の初日に、その不測の事態は起きた。
          横須賀のピアノ・バーが舞台になっているのだが、アメリカ兵と地元のチンピラの乱闘シーンで、女優が一人、歩測を誤って舞台から転落した。
          わずか1メートルの落差だからケガもしなかったが、「ユキさん、大丈夫か?」と手を伸ばし、引き上げなくてはならなかった。
          そして、その後もっと恐ろしい事態が起きようとしていた。
          暗転の際、舞台装置の小道具係が、テーブルの上に松脂(マツヤニ)で出来たビール瓶を置き忘れていたのだ。
          小生は最初気づかなかったが、次のシーンで、アメリカ人役の役者がそのビール瓶を割って凶器にし、相手の黒人兵を威嚇する予定だったのだが、ビール瓶がなかったので、慌てて別のテーブルにあった本物のグラスを掴んで割ってしまった。ガラスのかけらは舞台上に散った。
          その次のシーンでは、散ったガラスの床あたりに、数人が投げ飛ばされる予定だった。
          これは「正当化」以前の、団員の身の安全にかかわる問題である。
          ほとんどが下級生で、役に集中するあまり、この危険な事態に気づいていなかった。
          緊迫しているシーンだったが、健さん役の小生は、偶然に目に入ったカウンター横のホウキとチリトリを取りに行き、(もちろん、緊張した健さん役として)速やかに掃除して、何もなかったように道具を脇に置いた。
          こういう場合は異常にエネルギーを使うことがわかった。
          役に徹しているとは言え、はらわたが煮え繰り返るほど怒っていた。
          舞台が終わったら、舞台監督と舞台装置のチーフを殴るつもりでいた。
          なんで、ニヒルでダンディな役のオレが、舞台上で転落した役者を助けあげたり、掃除をしなきゃならないんだ!!
          初日は、散々な舞台だった。
          舞台の反省会が終わり、疲れきった小生は、寡黙になり、放心状態で、客席に身体を埋め、まだ居残って必死で色合わせや音合わせをしているスタッフのステージをボーと見ていた。
          その時、テーマ曲の「レフト・アローン」が会場に流れ始め、空虚な心にすとんと落ちてきた。
          ジャズをこれほど身近に感じた事はなかった。
          翌日、つまり最終日の舞台は初日とはうって変わって、非常に「スウィング」した素晴らしい舞台となった。添付写真の左が「健さん」役の小生。

          その6

          2003.12.21 Sunday

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            「制作」の仕事は、主に広報と会計である。
            広報は立て看板やポスターやチラシ、パンフレット、チケットを作り、それらを設置、配布して多くの人間に宣伝PRする。
            会計は、各スタッフから見積を取って公演の総予算を決定し、パンフレットの宣伝取りやチケットの販売を促進する事で収入を確保し、公演を財政的に成り立たせる仕事であった。(本公演は当時のお金でも100万円以上は必要だった。)
            直接の芝居創りから1年ほど離れる事で、次第に欲求不満がたまっていった。
            これは自分にとって非常に良いことだった。
            制作の仕事をしながら「舞台に立ちたい、芝居を創りたい」という想いが最高潮に達した時、チャンスが訪れた。
            毎年10月の学園祭の一環で「立命演劇祭典」という、約60パートほど参加する演劇コンテストがあるだが、それにゼミから参加しようという話が持ち上がった。
            農業経済学(世界や日本の食糧問題やアメリカの食糧戦略)を専攻するゼミに所属していたが、教授とゼミ生のチームワークは抜群だった。
            ゼミ生の中には、小生みたいな演劇関係者や上田南洋というフォークシンガーのセミ・プロもいた。
            小生はゼミ連のボックスに2晩こもり、徹夜して「もずが枯れ木で」という戯曲を書き上げた。
            当時、フォークシンガー・岡林信康が歌ってヒットしていた曲と同じタイトルだった。
            ゼミの仲間達は小生の原稿が、一枚あがるたびに、すぐに清書して印刷するという体制をとって待っていてくれた。
            岡林のこの曲を上田南洋にギターの弾き語りで歌ってもらいながら、芝居が進行していくというスタイルをとった。
            戦時中に満州で実際にあった幽霊の話と現在を交錯させる構成にして、戦争の矛盾と男女の愛、主人公(貧農)の土に対する執念をテーマに一気にドラマを書き上げた。
            わずか2週間あまりの稽古で、ゼミ生の心が一つになり、本番も大成功に終わった。
            ゼミの教授・大藪(おおやぶ・故人)先生も観てくれたが、芝居が終わって会場にマイクが回った時、「素晴らしかった!!感動した!このエネルギーを今後、勉強の方にも注いでくれることを大いに期待しています!」とコメントを述べて会場を沸かせた。(!?)
            学園祭の最終日には、後夜祭がグラウンドで盛大に行われ、出店なども所狭しと出揃い、京都中の各大学の学生達も集まり、約一万人の人出で運動場が賑わう。
            ステージではプロ歌手やいろんな出し物が会場を盛り上げ、いよいよクライマックスは期間中のコンテストの各賞やグランプリの発表である。
            会場が一瞬、静まり、総長が「今年度の立命演劇祭典のグランプリは・・・・経済学部・大藪ゼミの{もずが枯れ木で}です。おめでとう! 代表者はステージへ来てください。」
            運動場の片隅で出店(焼き鳥)を出していた我々は感激で抱き合って歓んだ。
            関西からは40年振りぐらいに出た、劇作家の芥川賞と言われている「岸田戯曲賞」を受賞した松田正隆氏は、同じ大学の出身(随分後輩だが、なんと長崎県出身)であるが、インタビューで「演劇の世界に入ったきっかけは、学生時代、学園祭の演劇祭典で初めて出場し、グランプリを取れなかったから」と話している。
            彼は3年間、挑戦し続けて最後の4年生の時に執念で見事グランプリを受賞している。勝った(!?)
            添付写真は、3年生の本公演「11匹のネコ」(馬場のぼる原作、井上ひさし脚本)のステージ。
            初めてのミュージカルで、演出はモリモリ(都筑聖和)、作曲は同期のキミドリ(旧姓・白石緑)がすべて手がけた。
            劇団史上に残る素晴らしい芝居になった。

            その5

            2003.12.20 Saturday

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              「イルクーツク物語」の公演体制に入っている時(10月)に、父が亡くなった。
              自分の進路を決める時期が来た。大学を中退し、島原に帰って金物屋を継がなくてはならない。
              商才も勤勉さもない不肖の息子ではあるが、大学進学を目指す弟やいとこ達が控えている。
              どんなに馬鹿でも一生懸命働けば、みんなのためにはなるだろう。
              「卒業してから、帰って来い」と親戚の叔父が言ってくれた。
              {一大決心}をしてその言葉に甘える事にした。
              とにかく「イルクーツク物語」の公演が終わるまでは、劇団のみんなに迷惑はかけられない。
              何も考えず頑張ろうと決心し、必死で役にしがみついた。
              しかし、作品の核心を伝える大切な役なのに、なかなか思うように表現ができない。
              要するに下手なのだ。演出の越中(城光清忠、3年生)は頭を抱え込む始末だった。
              芝居をかじり始めた20歳の若造が、結婚生活、出産、労働者、ソヴィエト社会など理解できるはずがない、というのは理由にならない。
              俳優はあらゆる方法を駆使して、「創造的想像力」で緻密に役の人物像を作りあげ、舞台上でその役を生き、「存在感」を出さなければならない。
              休みの日はあらゆる人が集まる京都駅に行き、一日中、自分の役柄に近い人を見つけては観察した。
              人間には、その人の国、性別、年齢、仕事、家庭環境などで身についた「属性」と、同じ属性でも個人で異なる「個性」を持っている。
              その「属性」と「個性」をいかに創り上げていくかが、リアリズム演劇における{役作り}の醍醐味である。
              周りのキャストやスタッフも必死だった。
              「読み合わせ」から「立ち稽古」へ、そして、非情にも12月の本公演の日が次第に近づいてくる。
              次が「通し稽古」・・・・そして、いよいよ「リハーサル」。
              無我夢中の中で本番も終わり、心地よい達成感と疲労感が湧いてくるのだが、自分はみんなのお荷物になったのでは、という心理的な負い目にも苛まされた。
              プロの世界に進んだ先輩達も、本番を観るためにわざわざ京都まで駆けつけてくれた。
              しかし、在学中に自分を一番可愛がってくれたアコちゃん(島崎明子・東京演劇アンサンブル)の眼を見ることができなかった。
              その後、12月公演の総括(反省会議)もまだ終わらない時期に、小生は立芸から「逃避行」したのだった。
              島原に帰って金物屋を継ぐ事を決めたのに、芝居を続ける意味があるのだろうか?
              これ以上、演劇を通して夢や理想を追ってなんになるのだろう?
              島原に帰れば現実が待っているだけなのに・・・・
              矛盾と葛藤の中で小生の思考は停止した。
              スケッチブックを持って京都を離れ、大阪大学の同級生の下宿にころがりこんだ。
              高校時代の同級生で、司法試験を目指すエリートだったが、相手の迷惑なんて考える余裕もなかった。
              仲間を裏切り、多くの友人に迷惑をかけ、必死で現実から逃げようとしていた。
              一ヶ月以上の逃避行の末、京都に戻り、立芸に退団を申し出た。
              全員の前での謝罪と自己批判、団員からの責任追及、・・・・今思えば、自分にとって人生で一番長い日になった。
              修羅場の中で、一本の光明が射した。劇団を、芝居を続けようと思った。
              当時の自分には、それしかない事に気がついたのだ。
              団員の仲間には今も感謝している。負け犬にならずに済んだのだ。
              添付写真は、3年生の6月公演「第三帝国の恐怖と貧困」(ブレヒト作)で描いた立て看板(補足用)。
              3年生の時は、団員の信頼を取り戻すために、キャストを希望することをやめ、ひたすらスタッフに徹した。
              多少の絵心があり、営業向きの性格(要するにおしゃべり)から、制作を担当。
              ベニヤ板を数十枚張った巨大な立て看板に、「11匹のネコ」(馬場のぼる原作、井上ひさし脚本)の楽しい漫画を描き、ポスターの原画も描いたりした。

              その4

              2003.12.19 Friday

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                舞台の幕が開き、袖で出番を待つ時の恐怖に近い緊張感は、こんな歳になっても忘れる事はできない。
                しかし、いざ舞台に出てしまえば、役に集中し没頭するしかないので、緊張する余裕なんてなくなる。
                相手の台詞や演技に全神経を集中させれば、自分の台詞や演技は自然に出てくる。
                そのために血のにじむような稽古を積んできたのだ。
                客席から自分の狙い通り、ドッと笑いが出た時、役者の喜びが沸いてきて、ますます演技がのってくる。
                「乞食と役者は一度やったらやめられない」とはよく言ったものである。
                6月公演が終わり、その総括(次の芝居の為の反省)も終わると、すぐに12月の本公演のレパートリー選定が始まる。
                7月の夏休み前までに、戯曲が決定し演出グループも選出される。
                演出と演出助手、舞台監督と舞台監督助手の4名は戯曲の分析やテーマ討論をしながら、舞台構想を練り上げ、夏休みスタートから始まる「魔の夏合宿」の準備にかかる。
                1年生の何も知らない頃は「夏合宿」が待ち遠しかったが、実情を体験してその恐ろしさにのけぞった。
                行き先は海水浴場のある、田舎が多いのだが、時間割を見せられて愕然とした。
                遊べる時間は、午後の1時から4時までの3時間だけで、あとは早朝の7時から、夜の10時までびっしり課題が詰まっている。もちろん飲酒はご法度だ。
                初日は体力もあり、海水浴でしっかり日焼けして、民宿の飯もしこたま食べて夜の討論に臨む。
                しかし、夏合宿には「キャスト、スタッフの決定」という大切な目的があり、ライバルを蹴落として、望む役を獲得するために、それぞれが戯曲の分析に余念がない。
                会議が終わり、消灯時間が過ぎても、呑気に寝る者などいない。
                夜中の2時ぐらいまで喧喧諤諤は続くことになる。
                翌日からは、演出グループに自分の希望する役を第1〜3希望まで書いて提出する。
                もう無邪気に海に泳ぎに行く者はほとんどいなくなる。
                そして、その夜からキャスト決定のバトル、修羅場が始まる。
                演出グループの司会で、同じキャストを望む数名が発表され、希望者が順番に、戯曲の分析やテーマ、なぜ、どのようにこの役を演じたいか?、全員に向かってアピールする。いわゆるオーディションだ。
                演出グループだけでなく、他の団員からもいろんな質問が飛び交う。
                すべてが出尽くしたところで、演出グループは別室に移動する。
                その間の数十分の休憩時間は異様な雰囲気が漂う。
                「今回のワーリャ役は○○さんに決定しました。理由は云々・・・」と演出が告げると、その瞬間に、ため息や泣き声、「納得できません!」の抗議など、日頃見ることのない人間模様が展開する。
                はっきり言って恐ろしい風景である。
                小生が希望した役は、他に誰も希望者がいなかった。
                3泊4日の「死のロード」・夏合宿が終わり、キャスト、スタッフが決定すると、各人、夏休み中にやらなくてはならない課題を与えられ、それぞれの故郷に帰っていく。
                合宿中の平均睡眠時間は5時間であるが、演出グループは2〜3時間しか睡眠を取れない。
                今後、絶対に演出グループに入ってはいけないことを本能的に感じ取った。
                添付写真は2年生の12月本公演「イルクーツク物語」(アルブーゾフ作・国内では民藝が初演)。
                主人公は3人(ワーリャ、ヴィクトル、セルゲイ)で、小生にとっては初めて本公演での主人公・セルゲイを演じる事になった。
                舞台上でウェディング・ワルツを踊るシーンがあるため、京都大学の民族舞踊研究会まで通ったり、舞台上でキスシーン(!?)があったりと、初体験が多くいろいろ大変だった。

                その3

                2003.12.18 Thursday

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                  演技部では、俳優技術の向上のため「スタニスラフスキー・システム」に沿って、いろんな事をやらさせる。
                  例えば、まず、各々目の前に注がれているお茶を全員同時に少し飲んでもらう。
                  「今、飲んでいる感覚をしっかり憶えてください」と言われた後、一人が指名され「お茶を飲んでください。   他の人たちは、彼(彼女)がお茶を飲んでいる様子を神経を集中して観察してください。」
                  人は多くの人達から注目されると、うろたえ狼狽する。つまり緊張し、あがってしまうのだ。
                  喉はカラカラになり、声はうわずり、手足はガタガタ震え、動きがぎこちなくなる。
                  筋肉が緊張するので心拍数は上がり、「私はだれ?ここはどこ?」状態になる。
                  日頃、無意識に飲んでいたお茶が、注目を受けるとそうではなくなる。
                  その違いを認識するところから演技の道はスタートする。
                  俳優の仕事の第一は「筋肉の解放」から始まる。
                  舞台の上の役者は自分の筋肉のどの箇所が緊張しているか、即座に自覚し、その緊張を解放させなければならない。
                  ではどうすれば、緊張から解放されるのか?・・・・(人前で話をしたり、歌を歌ったり、楽器の演奏、寸劇などをされた人は経験があると思う。)
                  人が他人の注目を集めた時、ただ一つだけ「あがる」状態から解放される方法がある。
                  それは「集中力」である。自分の演じている役柄、歌っている歌の内容、話している話の内容など「興味の対象」に、より深く集中すればするほど「あがる」という呪縛から解放されるのだ。
                  その「集中力」を高めるための訓練はいろいろあるが、「興味の対象」に集中できないような{障害}を、レベルに応じてどんどん大きくしていく。
                  お茶を飲む時の{障害}は他の人達の注目である。
                  スタニスラフスキー・システムについて詳しく書いても仕方がないが、リアリズム演劇を追求していくと、人の心理分析が容易になるのは確かだ。
                  心理の作用、反作用が働くから、例えば、人は自分の弱点を自覚した時点から、それを隠そうと逆の言動に出る事が多い。
                  「あんなに気の強そうな人が、こんな事でくよくよするなんて・・」とか「意外と泣き虫なんだなあ・・」とか、【意外】という状況には人間の本質が隠されている事が多く、演技にもよく使われる。
                  自分の失敗や逆境が大きすぎると、落胆や悲哀より、その滑稽さに思わず笑いが込み上げてきたりする。
                  添付写真は、2年生の6月公演「陽気な地獄破り」(木下順二作)のメーク風景。
                  初めての主役で体重は55kgまで減ってしまった。
                  インチキ臭い「歯の医者」の役だった。
                  この戯曲の元になったのは、島原地方の民話「地獄のあばれもの」だという。
                  恐らく、雲仙の温泉が湧き出ている「雲仙地獄」をイメージして生まれたのだろう。
                  舞台監督助手が上演許可を得るために、恐れ多くも、直接、日本を代表する劇作家・木下順二氏に電話をして許可を得たらしい。
                  全く怖いもの知らずだ。

                  その2

                  2003.12.17 Wednesday

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                    立命芸術劇場、通称”劇団立芸”は70年安保闘争の時代に、全国の大学で起こった学園紛争において、荒廃した学内で新たな芸術活動を目指す有志達が立ち上げた「芸術研究会(芸研)」を母体にしている。
                    「芸研」の中の演劇部門を目指すグループが、その後独立し”劇団立芸”を旗揚げした。
                    それはまさしく、より良い芝居を創るために特化した強力な「軍隊」だった。
                    劇団の運営や理念を推進していく{運営委員会}を中心に、レパートリー選定部(戯曲の研究や公演の作品を決定するまでの推進役)、演技部(スタニスラフスキー・システムや野口体操、肉体訓練、発声、俳優術などの推進役)、演出部(演出理論や演出法などの研究)、労演部(京都労演、プロの芝居の観劇などの推進役)などの日常体制と、それとは別に、公演体制(6月、10月、12月本公演の3回!?)という二つの側面を持っていた。
                    「プロは生活を賭けているけど、我々は命を賭けているからねえ・・・」と言われた時は、正直言って入団した事を後悔した。
                    現に、毎年入ってくる20名近くの新入団員も、次第に退団者が増え、一学年で最後に残るのは10名前後だった。
                    一般の学生みたいに、遊んだり、恋愛したり、楽しいサークル活動をしたりという世界ではなかったからだ。
                    夕方から活動は始まるのであるが、まず全員で演技部の指導に従い肉体訓練、野口体操、発声練習、俳優術などを約1時間、みっちりやった後、もし公演体制に突入している場合は、演出グループ(役者も含む)と舞台監督グループ(舞台装置、照明、効果、衣装、メイクなど)に分かれ、それぞれの現場で仕事にかかるのである。
                    日常体制においては、例えばレパートリー選定部の担当の日は、あらかじめ指定されていた戯曲についての分析、テーマ討論などを全員でやることになる。
                    二幕物の長編がほとんどなので、もしサボって読んでない場合は悲惨である。
                    全員から批判を浴び、数時間は黙って、討論が終わるまで{針のムシロ}である。
                    ゴーリキー、チェーホフ、シェ-クスピア、ブレヒト、テネシー・ウィリアムズ、アーサー・ミラー、アルブーゾフなどの外国物から、三好十郎、井上ひさし、清水邦夫、秋元松代、矢代静一、三島由紀夫、木下順二など手当たり次第だ。
                    小説などと違い、戯曲はほとんど台詞(せりふ)だけだから、慣れないと行間(ぎょうかん)に込められた作者の意図が理解できず、二幕物(上演時間が3時間ぐらいの作品)を読みきる事は苦痛以外の何ものでもなかった。
                    おまけに、その日が月に二回もまわってくるのだ。
                    添付写真は、「グスコー・ブドリの伝記」のリハーサル風景。
                    左が「ガリーガ」役の小生(初舞台!?)、右が主人公「ブドリ」役の赤頭巾(佐藤薫・2年生)。
                    宮澤賢治・原作、東京演劇アンサンブルの広渡常敏が脚本・演出で上演されたものだ。
                    立芸の公演では演出はアコちゃん(島崎明子・4年生)、舞台監督はユタンポ(長畑豊・4年生)だったが、二人とも卒業後はその東京演劇アンサンブルに入団し、プロの役者になった。

                    その1

                    2003.12.16 Tuesday

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                      同世代の中年族はあまり自分の過去を語ろうとしない。
                      それは恐らく、その前の世代の大人達が、自分の過去の栄光を語る様子に嫌悪感を覚えた記憶があるからかも知れない。
                      人はそれぞれ、過去の人生にドラマを持っている。
                      その過去のドラマが現在の自分自身を成立させ、未来に向かわせようとしている事に気づく。
                      現在、自分が行っているいろんな行動の原点は何か?
                      それは、学生時代の4年間の演劇活動であることは明らかだ。
                      すでに四半世紀以上が過ぎた今も、その強烈なイメージが自分を引っ張っていることは否定できない。
                      それは独り善がりの{過去の栄光}に見えるかもしれない。
                      しかし、自分の原点をこのコラムに記録する事で、来年迎える50歳に立ち向かえる気がするのだ。
                      昭和29年生まれの小生は、70年安保闘争をテレビで観ていた。
                      中学から高校時代の多感な時期で、自分達より5〜6年前に生まれた「団塊の世代」が世の中の体制に必死で抵抗しようとしている姿に感動を覚えながらも、どこか冷めた眼で見ている自分に気づいた。
                      いわゆる、しらけた世代が始まろうとしていた。
                      大学に入学したと同時に、永年片思いだった「初恋の人」に失恋した。
                      打ちのめされ、糸の切れた凧のようにキャンバスを徘徊していた時、「ロング・グットバイ」と公演タイトルの書かれた汚い立て看板が目に飛び込んできた。
                      これが自分の{原点}との初めての出逢いだった。
                      「 テネシー・ウィリアムズ?・・・劇団【立芸】?・・・へえ〜  こんな世界があったんだ・・」
                      心に大きく開いた穴を早く何かで埋めなくてはならない。
                      剣道、美術、陸上と中高時代を過ごしてきた田舎の青年にとって、「演劇」は異次元の世界だった。
                      夕方、やっと探し当てた劇団の活動場所は、古いボロボロの木造校舎の二階の一室だった。(理工学部の校舎で、数年後に取り壊された。)
                      40数名の劇団員が真剣に会議をしていた。
                      一人の長い髪の女性がタバコを吸いながら、「【欲望という名の電車】でも同じ手法が使われているけど、私が思うに、テネシー・ウィリアムズがここで表現したかったは・・・・」と全く理解できない難しい話をしていた。
                      ショックだった。まさに「カルチャー・ショック」だ。
                      部屋に入ったものの、これはまずい、お門違いだとそのまま退散しようとしたが、時すでに遅く、劇団員の視線はみんなこちらに注がれており、一人の団員がニコニコしながら「君の名前は?学部はどこ?」と近づいてきた。
                      「経済学部の猪原と言います。あの・・・部屋を間違えたみたいなので・・」
                      「よっしゃ〜!!愛すべき新入団員が今ここに誕生しました!!みんな、はくしゅ〜!!」
                      これで、4年間の軍隊のような劇団生活がスタートしたのだった。
                      添付写真は、その年の12月本公演「グスコー・ブドリの伝記」(宮澤賢治・原作、広渡常敏・脚本)の舞台装置を作っているところ。
                      左から小生(まだ十代だ!?)、ユタンポ(長畑豊・4年生)、ブンブン(宮内光紀・4年生)
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