猪原金物店・コラム明治10年に創業。九州で2番目に歴史の金物屋

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その5 13:09
2001年(平成13年)1月に、速魚川ギャラリーで開催した、平成新山・前田秀信童画展【普嶽借景】の、当時の前田氏のコメントには・・・・
「故郷の山が形を変えた。島原半島の風景は幼い日の思い出である。心の片隅にある情景、それが僕の絵の世界のモチーフとなっている。いつも雲仙の山々は青かった。それが10年前の出来事で色と姿を変えた。災いをもたらした猛威が、平成新山として新しい山の形を造り、それが雲仙の山々のひとつとして存在している。
その姿を、噴火の後に生まれた子どもたちは、元にあったものと思い、大人たちは新しい山の形として容認し、故郷として心に抱くほかない。そのツメあとが、幼い日のように緑に包まれる日を願っている。
雲仙は故郷の情景。島原半島は永久に僕の好きな場所。」
前田秀信 

小学校低学年の夏休みに、野球帽か麦藁帽子をかぶって、近所の川や海や山に虫や魚を採りに行った記憶がある。
ただし、添付写真のようなカラフルなシャツではなく、ほとんどの子供達は少し黄ばんだランニングシャツを着ていた。
カブトムシやクワガタ、セミ、トンボ、タマムシ、カミキリムシ、カマキリ、蝶々・・・・・虫かごに入れて、脱脂綿に染み込ませた砂糖水を吸わせ、取り出しては喧嘩させたりして遊んだ。
そして、そのほとんどの虫を死なせていた。
当時、「2B弾(にーびーだん)」という爆竹があり、マッチの箱で擦って点火させ、約1分ぐらいで爆発するようになっていたので、カエルや虫などいろんな動物を捕まえ、一緒に容器に入れて、爆発させて殺していた。
爆発後、即死したり瀕死の動物の状態をみんなで観察するのだ。
その時のみんなの目は、真剣で好奇心に満ち溢れていた。
【残酷】という語彙すら知らなかった少年時代。
どれだけの動物たちが子供達の「好奇心」の犠牲になっただろうか?・・・・
神や仏はどのような眼でわれわれを観ていたのだろうか?・・・・・
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その4 13:14
星空の中央に雲仙普賢岳、左の高く見える近い方の山が眉山(まゆやま、びざん)である。
満天に輝く星と、地上でゆらゆらと飛んでいるホタルがオーバーラップして、混沌とした幽玄の世界を醸し出している。
星とホタル・・・・日本人の何割がこのような風景を実際に見たことがあるのだろうか?・・・・・
あったとしても、そのほとんどが、遠い昔の懐かしい記憶としてだろう。
しかし、島原半島にはこのような風景が、今もまだちゃんと残っている。(!?)
島原は5月中旬前後からホタルが飛び始める。
「ホタル前線」は梅雨前線や桜前線と同じで、日本列島の南西から、次第に北上していく。
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その3 14:39
3月に入ったというのに、雪がちらつくこの寒波。
3月3日から10日まで、島原では恒例の「初市(はついち)」が開かれているが、「初市の時期は雪が降るからね。」と昔から言われてきた。
島原の「初市」は、江戸時代初期に「森岳(もりたけ)」という標高60メートルの小高い山を削って、島原城が築城された時から続いている。
初代城主・松倉重政が7年の歳月をかけて作った城であるが、築城のために全国から集まった多くの人々の消費経済をまかなうために市が開かれた。
現在の市役所前の広場を大手門(追手門・おおてもん)広場と言い、そこが初市の会場だった。
現在は会場が1キロほど離れた「霊丘公園」に移動してしまったが、小生が10代の頃までは「大手」で開かれ、城の周回道路(堀端)まで出店や見世物小屋などが広がって、隆盛を極めていた時代があった。
島原半島の40代以上の人間にとって、「初市」という言葉は、特殊な意味を持つ。
それは年に一度の半島最大のイベントであり、非日常の夢の空間であり、サーカスや妖しい見世物小屋、バナナの叩き売り、ガマの油売りなど、見たこともない大道芸や品物などに出会える唯一の娯楽の場所だった。
何万人という人々が連日詰め掛け、興奮のるつぼと化すのが「初市」だったのだ。
「初市」が終了すると、いよいよ本格的な春が島原にも訪れる。
菜の花があちこちに咲き始め、桜の蕾も膨らみ始める。
啓蟄(けいちつ)はすでに過ぎているから、冬眠していた爬虫類や両生類、昆虫も活動を始め、魚は産卵のために深い海から浅瀬に上がって来る。
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その2 14:26
添付写真は平成13年の作品展「普嶽借景」の時に、DM(ダイレクト・メール)に使用した絵である。
童画に描かれた木々や子供達の日焼けした顔色から、季節は夏から秋にかけての風景だと思われる。
小生が小、中学生の頃(昭和30年〜40年代)の遠足は、一年に一回は普賢岳登山だった。
小学生は体力の関係で5年生から登る事になっていた。
当時の小学生は、家で勉強などせずに外で身体を動かして遊びまわっていたから、平均的体力は現代の小学生とは比較にならないほどあったと思う。
それでも、日頃畏敬の念で見上げていた普賢様に登山するのだから、まわりの大人達や先生達から色んな注意事項を聞かされて、小学生なりに「覚悟」をしたのだった。(雲仙の仁田峠から頂上に登るハイキングコースとは質も量も根本的に異なるのだ)
まだ暗い朝の5時に小学校を出発して、眉山(まゆやま)側面の「普賢岳登山道入り口」がある焼山(やけやま)まで、約4kmのなだらかな坂道(県道愛野島原線)をワイワイ言いながら登るのである。
焼山に到着した7時頃、小休止と朝食のおにぎりをほおばる。
登山道から急な斜面になる。ツヅラ折の山道をみんな無口になって登り始める。
登るほどに、どんどんまわりの風景が変化していく。
5、6年生が一緒に登るので、総勢300名を優に越していた。
言われていたように、ちゃんと「氷砂糖」をなめながら、ブドウ糖(グリコーゲン)の補給も忘れない。
8合目ほどまで来ると、視界が急に開け、はるか下のほうに町や海が見え始める。絶景である。
当時の普賢岳は緑の木々に覆われ、頂上付近には「ハト穴」と呼ばれる昔の噴火口の跡が大きく口を開いていた。
「ハト穴」洞窟の中は夏でも寒く、氷があったため、江戸時代は島原城の家臣が殿様に献上するためにわざわざ取りに行っていたという。
頂上に着く頃はみんな汗だくになっており、ナップサックから下着を取り出し、マニュアル通りに、タオルで身体を拭いて着替えるのである。
普賢池や普賢神社、長崎県で一番高い頂上と、日頃大人達から聞いていた名物、見所が満載だった。
昼食を腹いっぱい食べて、名所や絶景を眺めたり散々遊んで普賢岳を充分堪能した後は、下山である。
小生を含め、腕白な悪ガキどもは、隊列を無視してわれ先に変化に富んだ坂道を駆け下った。
まるで背中に羽根が生えているような錯覚をおぼえた。
島原では「普賢様」に登ったというだけで、大人の仲間入りになったような認識があった。
「ほう、おまえも普賢岳に登れるほど逞しくなったか・・・」と家族や周りから一目置かれるのである。
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その1 14:06
長崎市在住、瑞穂町出身の童画家・前田秀信氏と先日久しぶりにお会いしてきた。
(前田氏の童画は長崎県の県政だよりの表紙に連載されているので県内の人にはおなじみだ。)
平成11年(1999年)12月に「前田秀信童画展」を速魚川ギャラリーで開催したのがご縁になって、平成13年(2001年)1月に、第2回の童画展を開催した。
その際、前田氏が故郷の山・普賢岳への想いを込めて、すべての童画の背景に普賢岳を描き込むという企画になった。
童画展のタイトルを、太宰治の「富嶽百景(ふがくひゃっけい)」をもじって「普嶽借景(ふがくしゃっけい)」にしたら面白いのではという小生の提案に、前田氏は乗ってきた。
平成新山(普賢岳)を童画のモチーフにするという大胆で斬新な発想とその表現は、21世紀のスタートに際し、何らかのヒントを与えてくれそうな気がして、非常にドキドキした記憶がある。
島原半島のあらゆる場所、遠くは多良岳から眺めた普賢岳も含め、四季折々の童画を約40点ほど前田氏は描いた。
考えてみると、普賢岳は島原半島の1市16町、それぞれの場所で違う姿をしている事になる。
「普賢岳」と言った時に思い浮かべる山の姿は、半島住民の生まれ育った位置が違うから、それぞれで違ったイメージなのである。
以後、数回にわたって、「普嶽借景」の作品を紹介するが、どこから見た風景なのか推理して欲しい。
掲示板に回答を添付してもらい、正解の場合は豪華プレゼントを進呈したい。
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