【テマテック・アイコン】の試み・その5

2010.08.07 Saturday

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     鏝絵職人・佐仲忠敏氏の鏝絵は完成した。   約半年間、佐仲氏を中心に進めてきた今回の鏝絵制作プロジェクトには、あらゆる場面で多くの人達の協力が反映されており、共時性(シンクロ二シティー)を感じずにはおれない。

    その店や企業、地域、団体、組織などの基本理念(コンセプト)や主題(テーマ)を、一目瞭然の目印(アイコン)に 集約する事で、より強烈にわかりやすく第三者に伝達することの重要性。   その【テマテック・アイコン】の試みは一応完成した。   しかし、【テマティック・アイコン】は飽くまで有効な伝達手段であり、大切な事はその旗印の元で展開される人間の意志と具体的な活動であると思う。   


     
    龍の鏝絵は北側壁面に設置されたので、直射日光は当たらないと思っていたら、沈みかけた西日がわずかな時間だが当たることがわかった。   写真は夕方の鏝絵である。   陰影が出来ることで龍がより立体的に浮き上がって迫力が増していく。   

     
     今年3月の初め頃、ほぼ鏝絵のモルタル原型が出来上がった時、二頭の龍の中央に丸い大きな渦の造形がつけられていた。   「これは一体なんですか? 雲ですか?」と佐仲氏に尋ねた。  鏝絵職人は「これは、エネルギーの渦です。  ここから、この速魚川や島原から大きなエネルギーが生まれてどんどん日本や世界に広がっていくイメージで作りました」と答えた。   感動して言葉が出なくなった。  佐仲氏は寡黙ではあるが、そこまで考えてくれていたのである。

    この丸い大きな渦はやがて灰色を基調とした漆喰で仕上げられ、濃淡のグラデーションが施された。  これは、手描き友禅作家・尾崎尚子氏のタペストリー作品「メール・ストローム(大きな渦)」とほぼ一致する発想であった。  もちろん、佐仲氏は尾崎氏の作品を見てもいないし、聞いてもいなかった。  ここでも共時性いわゆるシンクロ二シティーが働いたのだろうか・・・・・


    一方通行によって当店を確認する事が困難だった状況が、北側壁面の改修およびテマテック・アイコンの創出によって解決したが、当店名の看板掲示によってその効果は完成する事になる。    看板の文字は、当店にとって福岡の書道家・井上龍一郎氏以外には考えられない。

    二つの看板のうち「合資会社 猪原金物店 創業明治10年」は、龍一郎氏の思いのまま自由に書いてもらうことにした。   もう一つの看板「茶房&ギャラリー 速魚川」に関しては、「速魚川の文字は、魚をイメージして書いてください」と注文をつけた。   約一ヵ月後、看板の書が福岡から送られてきた。   龍一郎氏渾身の書であった。   当店の状況や理念、想いなどをすべて表現してくれており感動した。  しかも看板文字の書をそれぞれ何通りか書き分けて送ってくれていた。  

    それぞれが秀作で、選定するのに悩んだ末、その中の一つを選び、龍一郎氏に連絡した。  「私もその考えに賛成です」と言ってくれた。   そうなってくると選定されなかった秀逸な書も捨てがたくなる。  看板に書を彫り込むので、墨の薄く「かすれた」微妙な表現の書を選ぶのは困難になってくる。  その理由で選定からはずされた作品のひとつを龍一郎氏がわざわざ表装して記念にプレゼントしてくれた(写真の一番上)。   感激したと同時に、家宝にしたいと思っている。

     

     

     

    祖父の代から三代目の左官・佐仲忠敏氏。  18歳の時、「鏝絵」に魅せられた。  一人前の左官になって、いつか「鏝絵」を描きたいという夢を持ったという。  2003年に当店正面の二階の外壁に龍の鏝絵を描いた。  佐仲氏にとってこれが処女作にあたる。  それから7年。  今回、同じ龍を描いてもらったが、佐仲 氏の鏝絵はまた進化を遂げていた。  

    市内にも佐仲氏が描いた鏝絵が数箇所ある。  「打ち出の小槌」や「松竹梅」などそれぞれが秀作である。  現在58歳の鏝絵職人は、これからが旬である。  佐仲氏が元気なうちにどれだけの鏝絵を島原半島に残せるだろうか?・・・・ 


               
    平成の鏝絵職人・佐仲忠敏(さなか・ただとし)

               長崎県島原市中野町1292番地在住

               電話 : 0957−63−2136

               携帯 : 090−2391−1475

    【テマテック・アイコン】の試み・その4

    2010.05.02 Sunday

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      恐らく現在の日本人の95%くらいは「鏝絵」という言葉さえ知らないだろう。   「鏝絵」どころか、周りの環境から漆喰壁の家が姿を消してすでに何十年か過ぎようとしている。    そして現在かろうじて残っている在来工法の「古民家」や石塀なども、なんの躊躇もなく取り壊され、大手ハウスメーカーの洋風建築と駐車場に姿を変えつつある。 

      在来工法の日本建築の家が建たなくなり、折からの建設不況が重なって、「左官」の仕事がなくなりつつある。    家の外壁は防火サイディングを張り、内装はパネル張りの大壁にクロスが張られるようになった。   台所や風呂、トイレ、洗面所などの水まわりはシステム製品をワンタッチではめ込むだけになり、左官の仕事はせいぜい玄関土間と犬走りぐらいである。

      最近、20〜30歳代の若い左官さんをとんと見たことがない。   しかしそんな状況の中でも忙しい左官さんはあちこちに存在する。    高いレベルの技術を持っている事はもちろんであるが、一般的な左官業に加えて何らかの高付加価値つまり「特殊な技」を持っている左官さん達である。      
       

      漆喰壁に鏝絵の基礎モルタル部がしっかり固定され、いよいよその上から漆喰を塗る作業が始まった。     上の写真を観察すると、雲流の周りに養生用のガムテープが貼られ、モルタル部との間に1センチほどの隙間が開けられている。   これが塗られる漆喰の厚みになるのだろう。   

      雲流のデザインとフォルムもシンプルで面白い。    独特な様式美を表現したいという佐仲氏のチャレンジ精神が伺える。     漆喰に顔料を混ぜて色調を決定するが、塗った直後の濡れた状態と時間が経って乾燥した状態では全く色が変わるので、顔料の調合には神経を使う。 

      「どのようにして顔料の量を決定するのですか?」と質問したら、ニヤリと佐仲氏が笑った。   普通は企業秘密で教えてくれないのだろうが、「ドライヤーを使って強制的に乾燥させる」と教えてくれた。    
      なるほど、そのサンプルで色を先読みして顔料の調整をしていくのである。   いちいち自然乾燥を待っていたら仕事は進まない。


      今回の鏝絵の色調(明度・濃淡)に関しては、佐仲氏とかなり協議した。   佐仲氏ははっきりした濃い色で表現したかったようだ。    小生は淡い色を望んだ。   「極端な言い方をすれば、白い漆喰壁と同じ純白でもいいと思っています。   しかしそれではどこか味気ない。   飽くまで漆喰という素材を第一義に置いてかすかに色を点(さ)した・・・という表現でどうでしょうか?」 「色は干渉し合うから、珪藻土みたいな褐色系の濃い壁だったら、濃い色調の鏝絵でバランスがとれます。  しかし、白の漆喰壁には淡い色でも十分に色彩のニュアンスは伝わると思います。」  

      作者本人に納得してもらわないと、いい表現はできない。   このすり合わせが一番難しく、一番重要なところである。    確かに色の好みは十人十色である。   佐仲氏は小生の意図を理解し納得してくれた。     


      雲流の漆喰部分がほぼ完成し、いよいよ自宅で完成していた胴体部分がこの雲流に固定される。
      重量のある胴体が二人ががりで取り付けられるが、台風が来ても何十年経ってもビクともしないように押さえ金を当てた上から長いステンレスビス数本で捻じ込んで固定していく。   作者
      は自分達がこの世にいなくなった数十年後の観客を意識しているのかもしれない。


      雲流と胴体部の接合部の上に漆喰を塗って肉盛りし、自然な流れを作っていく。    側面から見ると胴体部はかなり大胆に壁面から突き出ている。    三次元空間でのダイナミックな胴体のうねりは、龍の力強さと躍動感、存在感を見事に表現している。


      すべての工程は、佐仲氏の頭の中にある。   ひとつの工程が済むと、すぐにビニマスカという養生材の薄い膜を貼って他の部分同志の傷や汚れを防ぐ。     完成して足場が撤去されると、地上7,5メートルのこの至近距離の位置からは眺めることができなくなる。    

      上の写真の左上、龍の頭部は「早く漆喰を塗ってよぉ!」と待っているようだ。   龍のあごひげの予定部分には輪郭(放射状)にガムテープで養生が施されており、漆喰壁との食いつきを良くするために薄く漆喰の下地が塗られているのが分かる。   モルタルで肉付けをするほどの厚みはないので漆喰を直接塗る予定なのである。 


      龍を一頭にするか二頭にするか、作者は昨年の末まで悩んでいたようだ。    作る側は構図のすべてに理由付け(制作意図)がいる。     平成18年11月に上演した朗読劇「信平走る・第6話(島原黎明編)」に面白い件がある。 

       

      信平は弟子、降伏と敬愛に、師・龍雲から伝えられた『龍にまつわる話』を聞かせた。


      双龍(そうりゅう)即ち双子(ふたご)の龍がそもそも本来の姿なのです。腹で交差し互いに重なり合い、

      一方の口が片方の尾を()む姿で、横八の字で永遠を表す姿をしています」


      「何かの暗示なのでしょうか」                                                  

      「そうです、この双龍は宇宙ならびに個人の究極の姿、又は大本(おおもと)の万物のありかたを表しているのです」


      「大本の姿とは」


      「天と地、神と魔、神と人間、過去と未来、自然と文明、知性と感性、男と女、生と死、
      陽と陰などといった宇宙に存在するあらゆる二元は、本来対立するものではなく、

      ()()一体(いったい)のものとして存在しているのです」


      「その不二一体の象徴が双龍なのですね」
                                                   

      「そうです。しかしいつの頃よりか不二一体である筈のものが、対立するものとされたのです」


      「具体的にはどのようなことですか」


      「国家と国家、宗教と宗教、民族と民族、など相容れないものとされる思想に
      殆どの人間が囚われているのです」


      「他宗教ともでしょうか?」


      「はい!」

      「日蓮宗(不受(ふじゅ)不施(ふせ)派)は、対立していたのではないのですか」


      「それは権力の介入時代の話です。もうこの明治という新時代には、もとの不二一体
      の形に戻さねばなりません。 小夜さんのキリスト教とも不二一体と考えなければなりません。」


      「いつ頃から壊れていったのですか?」

       
      「縄文の頃は確かに不二一体の精神が生きていた。 二本の縄を寄り合わせて一本の縄にした、その精神です」 
                                                         

      「変化していったのは縄文以降ですね」 
                                                   

      「そうです。 そしてさらに重要なのは日本列島そのものが双龍だったのです」


      「師匠、地図で見る限りでは二つには見えませんが」


      「消えたのです。 失われたもう一つの列島があり、その中核であったのが
      今の琉球なのです」




      「龍は二頭、つまり双龍でいきます。」と、年末に宣言した佐仲氏に再び悩みが生じた。   「双方に金の玉を握らせるべきか、片方だけにするのか?」である。    意味やバランスを考えながら悶々とする日々が続く。    作者は、創る歓びと同時に苦悩も与えられる。   すべては二律背反の法則だろうか・・・・    だからこそ完成した時の感動は大きくなるのだろう。

      金の玉(ドラゴンボール?)は、希望、夢、目標などを表しているのか。   具体的には平和、繁栄、成功、幸せ、愛、健康など人間が求めている普遍的なものではないだろうか・・・・・

      金の玉を掴んでいる龍の指は3本。   古代より龍の指の数は決められていて、中国の皇帝だけが5本、身分の高い家系が4本、庶民は3本となっていた。   中国の紫禁城にある龍の彫刻には確かに5本の指がある。   ラーメン店のドンブリに描かれている龍の指は3本である。   龍の指は3本が視覚的にも一番収まりが良いと思う。    玉を掴む場合はなおさら都合が良い。 


      いよいよ龍の頭部に漆喰が塗られ始めた。   モルタルの骨格と肉盛りでおおよその形は分かるが、どんな皮膚が乗るかでニュアンスや表情が全く変わってくる。   佐仲氏の中ではイメージはすでに固まっているのだ。    この時点でヒゲの芯部は付けられている。   将来、外圧で塑性変形しないように弾力のあるピアノ線(鋼鉄)を採用したそうだ。   緩やかで優しいカーブを描いている。


      頭部に漆喰が塗られいよいよ龍の表情が出てきた。    地上から見上げる距離と角度を充分に計算して輪郭が作られていることがわかる。    アップシーンがある映画やテレビと異なり、観客の肉眼で直接観られる舞台俳優のメイキャップ(化粧)は、視覚効果を計算に入れて驚くほど大胆に大造りに施す理屈と同じである。    しかもデザインとしてもその様式が確立されている。   恐るべし鏝絵職人・佐仲忠敏!!


      龍の頭部と胴体の接合部を自然な流れにするために漆喰で肉盛りしている場面。   漆喰の乾燥前と乾燥後の色の違いが分かる。   「山は越えました。」と大きなため息と共に佐仲氏が胸を撫でおろした。


      頭部がほぼ完成した。  あとはヒゲの肉盛りと首の仕上げである。   どんどん養生用のガムテープが剥がされていく。    白い漆喰壁とのコントラストが美しい。    左上の雲流が黒い付け柱を跨いでいる。   作者の《遊び心》が憎いほどにじみ出ている。


      付け柱を跨いだ雲流の上に蒼い月がポッカリのっていてなぜかホッとする。    左右の龍の緊張感を緩和する効果があるようだ。   左下の昇り龍のヒゲの方向と表現にハッとした。    右上の降り龍とは逆である。    この見事なコントラストと意外性・・・・・


      鏝絵用の鏝が足場の板にずらりと並んでいる。    金物産地で有名な兵庫県三木市の鏝メーカーがプロデュースしている。(当店にも同品を展示販売している)    これらの鏝を縦横無尽に操って鏝絵が描かれていく。   人間が考え出した手道具はそれぞれ物語性があって面白い。

       

      【テマテック・アイコン】の試み・その3

      2010.03.25 Thursday

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        鏝絵職人・佐仲忠敏氏は数ヶ月前から、今回の鏝絵の構想、デザイン設計、具体的各パーツの制作を進めるために、自宅納屋の床に現場と同じサイズの壁をベニヤ板で制作し、その上で厳密なシュミレーションを繰り返したという。  現場での失敗は絶対に許されないからだ。

        万全の準備が整えられ、いよいよ地上7,5メートルの足場で鏝絵の制作が始まった。   恐らく長崎県下で史上最大の鏝絵プロジェクトになるはずだ。



        上の写真は、漆喰壁に鏝絵の描かれる位置を決め、同時に壁自体を汚さないようにガムテープで養生を施している場面。  この上にどのような立体造形が描かれるのか?  現時点では佐仲氏の頭の中にしか存在しない。 


        自宅ですでに作られた鏝絵の基礎となるモルタルの造形パーツが、足場の上に並べられている。  漆喰壁に直接設置される龍の頭部や雲流が確認できる。  この製作工程に関しては佐仲氏は詳しくは教えてくれなかった。  魔術師にマジックのネタを教えてくれ、とか人気ラーメン店に出汁のレシピを教えてくれというのと同じである。


        佐仲氏の軽トラックの荷台には、モルタルの龍の胴体部分が載っている。  龍のダイナミックな胴体のうねりや動きが垣間見れる。  どんどん期待が膨らんでいく。


        いよいよ二人がかりで漆喰壁にモルタルの原型が設置固定されていく。  段取りが良いので作業は非常にスピーディーかつ正確である。  モルタル原型と壁面との接着剤には漆喰を使う。  さらにその上からステンレスの木ビスをねじ込み、より強固で完璧な定着を目指す念の入れようである。 


        既存の漆喰壁の上に再び漆喰が塗られ、経年変化によってモルタル原型と剥離しないように接着面を確実に強固にしていく。   写真は雲流の箇所を作業している様子。

         

        モルタル原型の裏面、つまり漆喰壁との接着面にも漆喰を塗る。  鏝絵と漆喰壁の間に隙間が絶対にできてはならないからだ。 
         

        漆喰を塗った後、厚みを均等にするためクシ目のヘラで綺麗に撫でて整える。  


        漆喰壁に設置固定したモルタル原型は、「ビニマスカ」という薄い膜状の養生材で覆っていく。   漆喰が硬化し定着する次の工程まで雨風や汚れから本体や漆喰壁を保護するためである。


        いよいよ龍の胴体が取り付けられる。    かなりの重量なので漆喰だけの接着は不可能である。  長いステンレスのビスを本体と壁面にねじ込んで貫通させ接着強度を高める。  数十年以上の風雨に耐える強度である。  


        胴体を固定した後、頭部と雲流とそれらをまたぐ胴体との全体のバランスをチェックしモルタルで肉盛りしていく。  胴体は仮の固定であり、再度取り外されて佐仲氏が自宅に持ち帰る。  胴体だけは空中に浮く立体なので漆喰による仕上げまで自宅で行われる。  何度も胴体の付けはずしが繰り返され、次第に出来上がっていく。

        【テマテック・アイコン】の試み・その2

        2010.03.11 Thursday

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          このプロジェクトが決定しスタートしたのは昨年の9月だった。   設計事務所のH氏と大まかな構想を話し合い、施工業者を決め、具体的な設計が始まった。   同時に「鏝絵」のプロジェクトと看板のプロジェクトもスタートした。

          遠方から初めて車で来店する観光客から 「この店を見つけるのに苦労しました。  お店の前を3回ほど車で通り過ぎてやっと見つけました。」とよく指摘を受け、アイコン(目印)の必要性を痛感していた。  店舗の正面には看板を揚げているのだが、駅前通りから車は一方通行で進入してくるので、よほど減速しないと当店を確認するのは難しい状況なのだ。  
           
           

          上の写真は、北側外壁の設計者と施工者によるミーティング風景。  図面を元に施工の工程を双方で確認していく作業が続く。  当地区は商業区域に指定されており準防火地域なので、外壁は耐火ボード(サイディング・ボード)を貼る事が義務付けられている。

          漆喰壁にするには、耐火ボードの上にモルタルを塗り、更にその上に漆喰を塗ることになる。  ところが、耐火ボードの継ぎ目部分(隙間)の下地処理が困難で、年月が経つとこの継ぎ目に沿って漆喰面にクラック(割れ目)が生じる可能性が出てくる。  今回は、この対策として下地に伸縮性の高い特殊モルタルを採用する事になった。  しかも二度塗りという念の入れようである。



          上の写真は、完成した漆喰壁に「鏝絵」を描くプロジェクトのミーティング風景。  設計図面の上にいろんな構図を鉛筆で描き込んで検討していく。  鏝絵職人・佐仲氏と彫刻家・S女史と小生の三人で深夜まで構想やアイデアを闘わせる。   最終判断は「鏝絵」を描く本人の佐仲氏に委ねられる。  まだ残暑が残る9月下旬の店内で。


          上の写真は、今年2月初旬に改修工事がスタートした風景。    黒いトタン壁に沿って足場が組み立てられていく。     高さは地上7,5メートル。  


          恐らく戦前か戦後に外壁の劣化を補修するために壁全体に貼られた波トタン。  鉄板の板厚は0,3mm以上ありそうだ。  現在市販されている波トタンの板厚は0,16mmか0,25mmなので、かなり古い時代の規格である事は確かである。  表面には赤錆が浮き出ており時代の流れを感じさせる。


          上の写真は、表面のトタンを剥がしたところ。  本来の外壁は板壁だった事がわかる。  安政7年(1860年)《桜田門外の変》の年に建てられたが、天井裏の棟札には万延元年(1860年)と記されている。  これは安政7年3月18日に江戸城火災や桜田門外の変の災異のために万延と改元されたからである。  下地の土壁がのぞいている。   この土壁は150年ぶりに日の目を見ることになった。 


          土壁が150年ぶりに日の目を見たのも束の間、二日後には耐火ボードが貼られ、付け柱が取り付けられた後、例の特殊モルタルが塗られた(写真)。  この上からいよいよ漆喰が塗られる事になる。


          上の写真は、外壁の矢切(やぎり・上の三角部分)に漆喰が塗られたところ。  足場に安全ネットが張られているので完成するまで全貌は撮影できない。   


          上の写真は、漆喰壁の工事が終了していよいよ「鏝絵」が始まる直前の風景。  鏝絵職人の佐仲氏が現場に来て何やら確認している。(写真中央)   実際には一ヶ月以上前から自宅で各パーツの製作が始まっている。  佐仲氏は今回の「鏝絵」に対して構想や試作も含め半年以上も取り組んでいる事になる。  文字通り鏝絵職人として《一世一代》の大作に挑戦しようとしているのだ。

          【テマテック・アイコン】の試み・その1

          2010.03.01 Monday

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            一昨年前に当店の北隣の橋本理容院の建物が取り壊され更地になった(下の写真)。  同時に、隠れていた当店の北側の壁がまるで錆を使って演出された古トタンのオブジェのようにあらわれた。

            建物は幕末(安政年間)だが、壁の劣化で波トタンを張ったのはいつごろだろうか?   トタンの表面に錆止めとして塗ってある黒い塗料はペンキではなくコールタールのようだ。   戦前か戦後?  これはこれで時代がかっていて味が出ており面白いと思った。   漆喰の白壁とトタンの黒壁のコントラストは悪くはない。

            しばらくすると、いろんな人が当店を訪れ「壁はなんとかならんのか?」とか「まちなみの景観を損ねている」とか指摘を受けるようになった。  噴火災害後、まちづくりに奔走し平成10年に当店を改修して速魚川を作り、その後「まちづくり協定」を住民同士で締結して、国の「街なみ環境整備事業」の補助を受けられる状況を作った主要メンバーに自分もいた。
            それから次第に上の町の街並みも変わりはじめたのだった。



            市役所まちづくり課の担当者が当店を何度も訪れ「街なみ環境整備事業の補助金を使って、北側の壁を改修しませんか?」と勧めた。  最初は気乗りせず曖昧な返事を繰り返していたが、そのうちフッとひとつの概念が頭に浮かんだ。
            「テマティック・アイコン(Thematic・Icon)・・・・これだ!」 漆喰の和風白壁なんてうんざりするほど全国どこでもやっている。  もうそんな無難な事でお茶を濁している時代じゃない。   壁自体に物語性、ドラマ、テーマを持たせられないか?   速魚川を作った時のように・・・

            島原や速魚川のテーマはやはり「水」。  「水」から生まれる物語は「龍」。  「漆喰壁」から生まれる物語は「伊豆の長八」の「鏝絵」。  北側の漆喰壁に水の象徴(Symbol)である「龍神」の躍動的な鏝絵をアイコンとして描き、多くの観光客に強烈な龍のイメージでテーマ(水)を伝えるのだ。   果たして「テマティック・アイコン」は「龍の鏝絵」で決定した。


                      テマテック・アイコン
                      Thematic Icon

             1870年頃、自然主義やアカデミズムに対する反動としてフランス、ベルギー
            に起きた芸術運動を象徴主義という。
             Symbolism(サンボリズム)
             「まずは印象を作り出すことに専念する」

             1998年、スペインのバスク自治州ビルバオ市に、グッゲンハイム美術館が
            開館した。アメリカの鬼才、フランク・ゲーリーの設計による、チタニュウム板
            がうねるような外観は、鉄鋼業などのくすんだ工業都市の中で衝撃を与えるには
            充分の効果があった。ネルビオン川に浮かぶ船のようにも見えた。
             テーマ(主題)
             テマテック(Thematic)な建物と云われた。

            美術館正面には、アメリカの現代美術家、ジェフ・クーンズの作による、10mも
            ある巨大な、植物で形造られている犬の「パピー」が客を出迎える。
            これがアイコンになった。
            アイコン(Icon)とは、物事を絵で簡単に表すこと。アメリカの哲学者パースが提唱した。



             【鏝絵職人奮闘記】 2003年のコラムより

            「鏝絵(こてえ)」をご存知の方は多いと思う(?)。
            しかし実際に見たことのある人は少ないかもしれない。
            漆喰壁の家がほとんどなくなりつつある現在の日本ではなかなかお目にかかれない。
            そもそも「鏝絵」とは江戸時代に「伊豆の長八」と呼ばれた左官名人が漆喰壁に鏝でレリーフ(浮き彫り状の立体絵画)を描いたのが起源だと言われている。
            漆喰壁が日本建築に多く使われるようになったのは、数度に及ぶ「江戸の大火」つまり大火事で江戸幕府が防火の為に奨励したからだ。
            それまで民家の壁は板壁がほとんどで、いったん火事になったら江戸の町のように人口密集地帯(江戸の人口は当時世界一だった)はすぐに延焼し「大火」になった。
            防火材として土壁や漆喰壁を施し、財力のある商家はそれに加え軒上に「うだつ」まであげて延焼を防いだ。(もちろん「うだつ」が上がらない財力のない家も多かった)
            「漆喰」は石灰(炭酸マグネシウム)と海草糊と麻の繊維に水を混ぜて作るが、空気中の炭酸ガス(二酸化炭素)を吸って硬化し、壁材として塗ると数百年は大丈夫だ。
            その漆喰壁に施す鏝絵は石灰、貝灰、ふのりを混ぜて岩絵の具(日本画の顔料)で色をつけ、鏝で塗っていく。
            「伊豆の長八」に始まる鏝絵が全国の左官達に広まったのは江戸、明治時代で特に、大分県の安心院(あじむ)、玖珠(くす)、日田には現在も数多く鏝絵が残っており、全国に千数百箇所あるといわれる。
            上の添付写真は昨年4月に当店の正面二階外壁に完成した「青龍(せいりゅう)」の鏝絵の一部。



            【 鏝絵名人・佐仲氏は実は《放火魔》だった!? 】  2002年のコラムより

            昨夜8時ごろ、佐仲氏本人が当店に来て自供されたから間違いない。
            「いや〜今日は参った。 消防車とパトカーが家にきて大騒ぎよ。」
            詳しく話を聞いたが、いや〜佐仲名人には参った。
            佐仲氏の敷地の端に竹林が100坪ほどあり、びっしり生い茂って手におえなくなった。
            昨日は空気が乾燥していて風もかなりあったので、「燃やしちゃえ・・」と思い竹林の端に火をつけられたらしい。
            軽い気持ちで火をつけたが風にあおられて凄い勢いで竹林が燃え始めた。
            近くに民家はないし自分の土地だから良かろうと思っていたがあまりに火の勢いが凄いものだから火事と間違われて通報されたらまずいと思い始めた。
            消防署に電話して状況を説明したら、すでに消防車はそちらに向け出発してますという。
            電話を受けた消防署員がたまたま佐仲氏の同級生だったので「サイレンは鳴らさないよう無線で言ってくれ!近所の手前もあるし・・」と頼んだらしいが遅すぎた。
            消防車とパトカーは平和な田舎町・島原の国道251号線をサイレンを鳴らし華々しく疾走した。
            消防署員は訓練どおり手際よくホースを連結して速やかに放水し、「竹林火災」を消火していく。
            現場はサイレンを聞きつけて集まった近所の人達で黒山の人だかり。
            佐仲氏は「消すな!もう少しで終わるんだ!」と叫ぶが聞き入れられるはずがない。
            警察はすぐに帰って行ったが、消防署は長々と事情聴取をしたらしい。
            「まったく無神経にも程がある。あと3分の1で焼き終わっていたのに・・・」
            佐仲名人、無神経なのはあなたの方です。
            佐仲忠敏氏は左官さんで速魚川や当店を作ってくれた人。
            当店の漆喰壁に長崎県では珍しい「鏝絵(こてえ)」を今年春に制作した。
            「鏝絵」については別の機会に書く。
            上の添付写真は自供した後、焼酎を一杯呑み終えた直後の佐仲鏝絵名人。
            (性格も顔も「フーテンの寅さん」にそっくりだ。)
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