第二回【 サヴィニャック展 in 速魚川 】 その4

2012.06.27 Wednesday

0
    「現在、フランスに買い付けに行っているスタッフから『島原に行くのだったら是非お土産に』と送ってきてくれた究極のパテです。」と、種類の異なる3個の瓶詰めパテを山下氏から頂いた。 パテとは肉や魚などの具材を細かく刻み、ペースト状あるいはムース状に練り上げたフランス料理で、パンやクラッカーなどに塗布して食べるのが一般的だ。

    相田みつを」の『うばい合えば足りぬ わけ合えばあまる うばい合えば憎しみ わけ合えば安らぎ』という作品がある。 島原みたいな田舎は海や山や農作物が豊富なお陰で、旬の野菜などをどっさりもらうことが多い。 春のタケノコの時期は毎朝、玄関に掘りたてのタケノコがどかっと置いてある。自宅で食べる量は知れているので近所や知り合いに配る。 すると、お返しにと梅や花やキュウリやカボチャやトマトなどいろんな食材が届けられる。 そしてそれらをまた配る・・・ その循環で食材は買わなくて済む事が多い。 不思議な事に文字通り「分け合えば余る」のである。

    その日ももらった新鮮なズッキーニを見て「ラタトゥイユを作りましょう」と山下氏はパプリカを買いに出かけた。 ナスとトマトはあったので材料が揃ったところで彼は厨房に入り、スタッフが見守るなか、手際よく「ラタトゥイユ」を作り始めた。 本場ヨーロッパ仕込みのプロの元・オーナーシェフが作るフランス料理を島原で目の当たりにする事になる。 もちろん本人の解説入りで・・・・ 


    山下氏の20年来の友人で、彼と速魚川の縁を繋いでくれた唐津の金属彫刻家・田邊朗氏が山下氏に会いにやって来た。 「今日のディナーは簡単なもので恐縮ですが私が作りましょう」と山下氏はフランス製のパテや昼間仕込んでおいたラタトゥイユを使って驚くような速さでパスタなどを作ってくれた。

    「お、美味しい・・・」と、かすかな言葉しか発せず黙々と料理を口に運ぶ4名。 ヨーロッパで料理人修行を終えて東京に帰って来た1970年頃は、日本でスパゲティーといえば「ナポリタン」しかなかった。 そこで山下氏はペペロンチーノ、カルボナーラ、ボロネーゼなど現在では一般的になったパスタ類を自分のレストランで作って出したら大評判になり、アッという間に全国に広がっていったのである。 山下純弘はパスタにおける日本のパイオニア(草分け的存在)という事になる。

    また70年当時は、コーヒーのエスプレッソがなかったので、エスプレッソ・マシーンを探したが、国内にはなくイタリアから直接輸入することになった。 現在みたいなコンパクトな自動式ではなく、ボイラーも付いた大掛かりな機械だったのでビックリするほど高額だった。 そしてエスプレッソもパスタ同様に大ヒットし全国に広がっていった。 「恐らく、私がエスプレッソ・マシーンを日本に持ち込んだ初めての日本人かもしれません。 その機械は、譲り受けたレストランで現在も修理しながら大切に使用されているそうです。」    




    別の日に、4月から離島勤務になった彫刻家で教員のT女史が山下氏に会うためにやって来た。 山下ファンでもある彼女は、離島で獲れた巨大なサザエとアワビを持参してくれた。 「ひゃ〜! 島ではこんなでかいサザエが獲れるだね」「いえ、これは中サイズで大はもっと凄いです」「エ〜!?・・・・・・」

    早速、サザエはつぼ焼き、アワビは山下氏によってフランス料理に(上と下の写真)。 この日もメンバーの異なる5名で海鮮料理を堪能する事になった。 T女史は山下氏からイタリアの詳しい情報を聞いていたが、現地フィレンツェでイタリア人と結婚して宿屋を経営している日本人女性を紹介することになった。 その女性はルネッサンス期の美術・建築研究家として有名な人物で、山下氏とは幼馴染だそうだ。 近々、T女史はイタリアでこの女性と会うことで人生の大きな転機を迎える事になるかもしれない。



    青年時代の山下氏は、オートバイや自動車の強烈なマニアだっただけでなく、本格的なレーサーでありメカニックでもあった。 「なんでも追求し始めたら世界一を目指してしまう性分なのです。」と語るとおり、自宅には自動車やバイクの整備や加工も出来る工具類をそろえており、家一軒を建てることが出来る建築道具も完備しているという。 

    上の写真は、ビンテージ・バイクのマニアが分厚い資料図録を持参し、山下氏とコアな世界の談義をしているところ。 「デザイン的に斬新でも、この位置にマフラーをつけたのは設計ミスですね。 これではドライバーの脚を火傷する可能性が高まる。」とかそんな会話が聞こえてきた。

    下の写真は、植木内科医院院長の植木先生と彼の乗ってきたミニ・クーパーについて話す山下氏。
    1980年代、日本にイギリス車であるミニ・クーパーのブームが起きるが、その火付け役が山下氏だった。 業界は全く異なるが、山下氏の中のどこかに敗戦後、日本人のアイデンティティーを守る為にGHQと闘った『白洲次郎』のダンディズムと反骨精神を連想してしまうのは自分だけだろうか? 
         


    日本人のアイデンティティーについて山下氏と話しているうち、奈良法隆寺の五重塔に話題が移り、面白い話が聞けた。 「世界最古の木造建築といわれる五重塔が千数百年間、そのまま建っていると思っている日本人が多いですが、実は戦時中に上から三層を解体し、奈良県生駒の山中にあった豪農の巨大な納屋に収納して隠し空襲から守ったそうです。」

    「この事業を提案したのが当時、財閥だった鴻池(こうのいけ)氏で、三菱の岩崎氏や三井氏などの財閥と共同出資して、日本人の宝を守ろうとしたのです。 当時の財閥には武士道があった。利潤追求のためには手段を選ばない今の企業とは違っていたのです。」と話すと、「鴻池氏とは赤塚の地下鉄工事があってた当時に知り合いまして、現場事務所で飼っていたグレート・デンという大型犬の子犬を『工事が終わったので引き受けてくれ』と社長本人からもらったのです。」 

    「飼い始めるとみるみる大きくなって子牛ほどになりました。 ある日その犬とペット同伴できるカフェでくつろいでいると、『お宅の犬はすごく頭が良いですよ!警察犬の訓練所に入れたらどうですか?』と隣に居合わせた愛犬家から勧められ訓練所に入れました。 時々面会に行くと、ビックリするほどやつれていて後悔しました。 よほど厳しい訓練だったのでしょう。」

    「それからしばらくして、夜中に電話があり『高倉と申します。夜分遅く申し訳ありませんが、お宅の犬を譲ってもらえませんか?』と俳優の高倉健の声でした。 いくら高倉さんでもそればかりは、とお断りしましたが、後日再び電話があり『来年の東映の私のポスターに是非お宅の愛犬を』と頼まれ了承しました。 後で思えば高倉健さんにとってそのポスターが東映時代最後のものとなりました。」 訓練所にいた山下氏の犬に健さんは一目惚れしたのである。 


















     

    第二回【 サヴィニャック展 in 速魚川 】 その3

    2012.06.15 Friday

    0
      速魚川ギャラリーに展示されたサヴィニャックのオリジナルポスターのそれぞれに隠された「ドラマ」というか面白いエピソードを山下氏は観客に語り続ける。 それは描かれた当時の時代背景だったり、サヴィニャックの人生だったり、クライアント(企業)の状況だったりとバラエティーとユーモアとエスプリに富んだ「笑い」を誘う展開になるのだ。

      例えば、SNCF・フランス国有鉄道のチケット半額セールのポスターの依頼をサヴィニャックが受けたのだが、旅行姿の男性と女性をそれぞれ身体の左半分だけ描いて完成させた。 このポスターが評判になりチケットは飛ぶように売れセールは大成功だった。 気をよくしたSNCFが翌年も再びサヴィニャックにこのチケット半額セールのポスターを依頼して来た。

      そこでサヴィニャックは最初のポスターの背景をブルーから白に変えただけで提出した。 するとこれも大ヒットした。 SNCFの担当者がやって来て「今回も素晴らしかったです! しかしあなたは今回、随分楽をしましたね。 背景の色を変えただけだった。 どうでしょうか、このポスターの構図と同じようにギャラも半分ということで・・・」 




      島原新聞や長崎新聞、NHK長崎放送が「サヴィニャック展」を紹介してくれたお陰で、県内のサヴィニャックファンが遠方からも来てくれた。 「九州で、しかも長崎県で本物のサヴィニャックのポスターを観れるとは思いませんでした。」と喜んでくれたファンも多かったが、会場で山下氏の解説を聞くうちに、いつの間にか「山下純弘ファン」になってしまうのである。

      山下氏はサヴィニャックという「媒体」を使いながら、観客一人一人の発酵できない人生や魂に「触媒」を投げ込み、見違えるような発酵つまり人生の目的や生甲斐を気づかせてくれる不思議な人間である。 期間中に多くの人達が感動の涙を流すところを何度も目撃した。 「山下さんは女性だけじゃなく男性も泣かせるんですね。」と言うと、嬉しそうに「そうですか?」と笑った。 


      大衆アートのサヴィニャックと同様に、山下氏は子供から高齢者にいたるまで分け隔てなく接し語りかける。 世界中に多くの友人を持つ国際感覚と自由人として生きてきた誇りや哲学が、ナンセンスな権威主義や「ヒエラルキー(身分階級)」を認めないのである。 近所の幼い子供たちとも共通言語を駆使してたちまち友達になり、彼らの感性や情報を吸収していく。 まるでサヴィニャックだ。(上の写真)


      サヴィニャック展を開催した二日目の日曜日、ギャラリーを開場する1時間前に雲仙市瑞穂町の「岩戸神社」に山下氏を誘った。 島原から車で片道20分ほどの標高320mの場所である。 車道に面した参道入り口から約300mほどの坂道を登り、石階段を上がると垂直に切り立った岩肌の根元に小さな祠(ほこら)が祀ってある。

      参道の脇に立つ巨大な杉の木が、この場所が縄文の太古から存在することを物語っている。 ここの空気の清浄さはいつ来ても感動する。 いろんな雑念を浄化してくれるようだ。 国内外から参拝者が訪れていると聞いているが、ここで人と出合ったことはない。 「神様が『人払い』をしてくれる」不思議な場所である。
        


      参道の巨大な杉の木の造形を見上げて「まるで巨人が歩いているようです」と山下氏がつぶやいた。 色彩や造形に関わってきた山下氏ならではのコメントである。 子供のような豊かな想像力と感性・・・



      上の写真は、切り立った巨大な岩壁つまり「岩戸」の祠に参拝した山下氏。 さい銭をあげ鈴を鳴らして合掌しながら神々になにを祈ったのだろうか? 信心深くもある彼はこの場所でどんなインスピレーションを神々から授かったのだろうか? 


       
      サヴィニャック展の期間中に山下氏は多くの地元の知り合いができていく。 昨年の第一回の開催時は宿泊しているホテルとギャラリーを連日往復するのが精一杯の盛況で、島原の自然や温泉、歴史施設などをゆっくり堪能することが出来なかった。 今回は「山下純弘を温泉に誘う」企画が立ち上がった。

      サヴィニャック展のちょうど中日に当たる6月13日(水)にその企画が実行された。 山下氏の疲れもピークを迎える頃だ。 雲仙の温泉に浸かり心身をリフレッシュしてもらおう、と何名かの友人が動いてくれた。 昼食を市内・折橋(おりはし)地区の橋本氏の別荘で済ませ、その後雲仙に車で移動するプランが立てられた。

      上と下の写真は橋本氏の折橋別荘。 別荘のベランダからは島原市内の全貌はもとより、有明海を挟む対岸の熊本・金峰山や長洲港、日立造船所、日によっては遠く阿蘇山が見えるのである。 標高200mほどで、すぐ右に眉山、背後に普賢岳という自然に囲まれた場所である。

      この別荘のすぐ左側の谷には巨大な砂防ダムが建造されており、かつてこの谷にあった折橋地区は20数年前の雲仙普賢岳噴火災害時に土石流の被害に遭い地区ごと移転を余儀なくされたのである。 湧水や森林など自然に恵まれた折橋地区には田んぼや畑や茶畑が広がり、幼少期の我々にとって学校遠足の中継地であり、クワガタやカブトムシが数多く生息する夢のエリアだった。  


      上の写真は、橋本氏の父で小生の小学生時代の恩師・橋本徹也先生。 45年前に地元の島原市立第一小学校でわが6年2組の担任をされていた。 小生はこの恩師から人生における多大なる影響を受けることになった。 当時、わんぱくで好奇心旺盛な教え子達を「大人」として対等に扱ってくれた。

      当時まだ大臣にもなっていなかった田中角栄の話、人生において楽器を友とする事の重要性など、政治や経済から文化、芸術にいたる教科書に載っていない世界を教えてくれた。 ビンタもよく張られた。 島原城の石垣に生えていた大きなビワの木に友人達と登り、ビワを食っているところを校長に見つかった時は、特に厳しかった。 地面まで10m以上の高さだったので落ちたら死ぬ危険性があったからだ。 

      橋本先生の自宅は現在、雲仙市国見町に移転しているが、代々続いた橋本家の土地である折橋に親子で別荘を建てた。 背後にも広大な敷地があり、その森林を「里山」に改良しつつある。 「蕎麦打ちを熊本で習ってきたので、畑に蕎麦を植えていますが、土地に栄養があるせいか蕎麦の実が育ち過ぎて、その重みでこんなに茎が曲がってしまいました。 やはり蕎麦は痩せた土地じゃないとダメですね・・・」と山下氏に説明する橋本先生(上の写真)。    


      「これもサヴィニャックのオマージュ作品です。面白いでしょ?」と、山下氏は自分の着ている白い長袖のTシャツの胸の部分を指差した。 「これは、福岡の『大空丸』というブティックの専属デザイナー・大石氏のオリジナルTシャツです。 サヴィニャックの有名なチェスのポスターのオマージュを針金で作り、照明を当てて影をつけた写真をプリントしたものです」

      フランス語のhommege(オマージュ)は、敬意。尊敬。または献辞。賛辞。の意味であるが、アートの世界では「過去の名作に尊敬の意味をこめて、敢えて部分的に演出・表現を似せる技法」とある。
      「パロディー」とも若干ニュアンスが異なるのでインターネットでいろいろ調べてみた。


      「オマージュ」 : 過去の名作に尊敬の意味をこめて、敢えて部分的に演出・表現を似せる技法。

      「パロディ」 : 有名作品を部分的に面白おかしく表現・演出する行為。

      「パスティーシュ」 : 過去の名作を下敷きにオリジナルストーリーを創作する行為。

      「リスペクト」 : 過去の名作に尊敬の意味をこめて、対抗・意識してオリジナルスト−リーを創作する行為。

      「インスパイア」 : 有名作品を著作権者の同意の下、元ネタを再構成して作品をつくる行為。

      「モチーフ」 : 創作のアイデアを他作品・歴史等に求めて作品をつくる行為。

      「モジリ」 : 作品に登場するキャラ等の名詞をわざと他作品から持ってくる行為。

      「カバー」 : 既存の作品を独自の解釈でリメイク行為(音楽用語)。

             〜 以上は元ネタを制作者が明かしてくれるパターンが多い 〜

        「かぶりネタ」「孫ビキ」「二番煎じ」「パクリ」「劣化コピー」「盗作」などは無知や悪意によるもの。
        


      第二回【 サヴィニャック展 in 速魚川 】 その2

      2012.06.11 Monday

      0
        本日、NHK長崎放送局の取材を受けたので、明日、昼と夕方のニュースで「サヴィニャック展」の様子と山下純弘氏のインタビューが放送される。 数分間(2回)ですが県内の方は是非観てくださいね!!

            
        6月12日(火曜)  昼 12:15〜 (全国ニュースの後
                     夕方 6:10〜 (「見んと長崎


        6月7日(木)に東京の「ギィ アンティックギャラリー」から13個の荷物が届いた(上の写真)。 昨年は9個だったので今年は4個多い事になる。 以前のブログにも少し触れているが、これには訳がある。 サヴィニャックのオリジナルポスター以外に山下純弘氏の「モード画」が含まれているのだ。

        「サヴィニャックはギャラリーで、モード画は速魚川の中庭でと分けて展示しましょう。 中庭の壁を山下さんのモード画でいっぱいにしたいのです。」「分かりました! 頑張って描きます。 今回は少しエロティックな作品を展示します。」「エロティシズム・・・いいですね!! 砂漠にオアシスです。 楽しみにしてます。」 


        作品が梱包された13個の荷物が到着した翌日の6月8日(金曜)の午後1時頃、山下氏がバックひとつの身軽ないでたちでフラリと来店した。 満面の笑みを浮かべながら「いや〜ご無沙汰してます!」と握手をしたがすごい握力だ。 まるで久しぶりに実家に帰って来た青年である。

        茶房で軽く食事をしてコーヒーを飲みながらしばらく会話をした後、いよいよ会場設営に取り掛かることになった。 勝手知ったる、で梱包された荷物のダンボール箱を手際よく開封しながら次々にポスターをギャラリーに搬入していく。 山下氏の頭の中にはすでにポスターの展示位置までイメージが出来上がっているのだ。 
         


        山下氏は会場設営をしながら「サヴィニャックのポストカードを印刷してもらっている福岡のS印刷のN氏が今日3時頃、福岡からわざわざ新作のマグカップを持ってきてくれるそうです。」と言った。

        山下氏とN氏が共同でプロデュースしたサヴィニャック・プリントの10種類のマグカップがテーブルの上に並べられた。「東京に送る予定ですが、山下さんが島原でサヴィニャック展をしていると聞き、完成品を一刻も早く見てもらいたくて持参しました。」とN氏が言った。

        ギャラリー会場に本物のポスターが展示してあるので、マグカップにプリントしてあるポスターと比較できる。 色彩が見事に再現されている事に感動を覚えた。 N氏は「色の調合にはかなり神経を使いました。 今回は10種類に絞りましたが、今後種類を増やしていきたいと思っています。」と言って、10種類のマグカップを6個ずつ会場に残し、夕方には福岡に帰って行った。 N氏は5年来の熱狂的なサヴィニャック・ファンであり山下純弘氏のファンでもある。


        「素晴らしい色彩が出ています。これは東京でも売れますね。」と山下氏はN氏の仕事を絶賛した。
        「是非、速魚川ギャラリーにも展示して売りましょう。」と10種類のマグカップを置く事になった。

           
        ★ 「サヴィニャック・カップ」 各種 1575円(税込) 












        6月8日の会場設営をほぼ終了し、速魚川中庭でのささやかな前夜祭(上の写真)。 「島原に来る直前、東京で連日食事会があり食べ過ぎちゃって少し胃腸が弱っています。」と山下氏。 山下純弘ファンの差し入れ「アカヤマ(エビ)」と野菜穀物類を中心に身体に優しいディナーになった。

        「モード画は明日朝から設営します。」 朝から東京を発って移動時間は約半日、島原に着いたら会場設営と山下氏にとってハードスケジュールの一日だった。 食事が終わったらホテルにチェックインしてゆっくり休んでもらおうと思っていたのだが、話が尽きることはない。


        上と下の写真は、6月9日(土)初日の様子。 オープニング・セレモニーとして夕方7時から山下純弘氏のトーク・ショーに続き、8時半から「自由立食交流会」が控えており、長崎のエンジニア・中島氏や川遊びの会・才籐氏がバーベキューの全ての下準備をしてくれた。 有り難い! 大変お疲れ様でした。そして有難うございました!



        今回の「自由立食交流会」のバーベキューの目玉は「ミニ・ホタテ」と「牡蠣」(上と下の写真)。 すべて中島氏のコーディネートで、これが会場で大評判だった。 



        午後7時10分から山下純弘氏のトーク・ショーが始まった。 昨年と今年、山下氏が現場で体験した福島や福井のエピソードからスタートし、「大衆アート」と言われるサヴィニャックの商業ポスターが持つ重要な存在理由、21世紀の地域振興や文化、経済、人生哲学と話は次第に「山下ワールド」の核心に進んでいく。


        2011年11月、山下氏は友人の勧誘で福島県いわき市に赴き、ボランティアとして参加した。 「小学校の子供達にクリスマスのプレゼントをしよう」という主旨で開催されたイベントで、ケーキ作りの料理ディレクターを担当。 会場のブースにはサヴィニャックのポスターを飾り、6時間かけて子供達にケーキを作ってもらいみんなで食べるのである。 山下氏のコーナーは食べる事が大好きな子供達で一杯になった。 

        山下氏は子供達が作ったそれぞれのケーキに点数や順位をつけることはしない。 それぞれの個性を「アート」として評価するのである。 子供達の眼がみるみる輝き始め、親達に「ケーキ屋になる」「ケーキ職人になる」と真剣な言葉で語り始めた。 子供たちは次の時代を創る「新しい風」を持っているのである。 試食が終わった頃、ひとりの女の子が遅れてやって来た。 ケーキはすでになく、「遅れてきたのでいいんです」と彼女は帰って行った。 この心残りが「あの子のためにもう一度やろう」という次のエネルギーにつながった。

        3・11の巨大津波で奇跡的に残った陸前高田市の「奇跡の一本松」は有名であるが、このような出来事は復旧復興を目指す残された人々に力強いメッセージと勇気を与える。 いわき市においても同じような奇跡が起きていた。 山下氏を含む約50名のボランティアは、奇跡的に津波被害に遭わなかった諏訪神社のお堂に寝泊りしたが、食事は海岸線から200メートルほどに一軒だけ無傷で残った食堂でとっていた。 周りの家屋はすべて津波で流され広大な更地の状態だ。

        その食堂の女将さんが堅い口を開いて皆に話し始めた。 「大地震があって逃げようと思った時には、巨大津波が目前まで迫っており死を覚悟した。 ところが迫ってくる津波が直前に二つに分かれるのが見え、この家を避けるように通過していった。」 山下氏は映画「十戒」を思い出した。 モーゼが大海を二つに分けて民衆を率い進んでいくシーンだ。 「代々、我が家には大きな天狗様のお面があり、家族で感謝しながら毎日拝んできた。 その天狗様が助けてくれたと信じている。」と彼女はつぶやいた。 


        2012年1月〜3月、福井県あわら市金津(かなづ)の「金津・創作の森」ミュージアムで「サヴィニャック展」を開催したが、2005年「サントリー美術館」で初めてポスター展を開催して以来、静岡、広島、福岡など全国の美術館の入場者数記録を塗り替えてきたように、金津でも従来の記録を大幅に更新することになった。 銀座の「ブラフィック・ギャラリー」では25年間の入場者数の記録を3倍にした。

        では、なぜこのような現象が起きるのか? サヴィニャックには子供から老人までの大衆ファンがついており、そのサヴィニャック・ファンが間を埋めていくからだ。 ルーブル美術館やオルセー美術館、ニューヨーク近代美術館などで「サヴィニャック展」が次々開催され、世界中がアートと認めていたにもかかわらず、日本だけが「ポスターなんてアートじゃない」と言い張っていた時、サントリー美術館だけが気づいたのである。

        企業などクライアントからお金をもらって描いてきたポスターが後にアートになっていく。 これはあらゆる業種でも同じことが言える。 芦原(あわら)温泉旅館組合の老舗旅館の女将さんたちに「お客へのもてなしを商売にしてきて、それが3代以上あるいは100年以上続いたり時間がたつと、文化になりアートになっていく。」と説明したら彼女達の表情が変った。 

        しかし、「伝統を守る」だけの時代は終わろうとしている。 そういう意味では世界も日本も過渡期に来ている。 そこにまったく新しいものを融合させていく必然性が生まれている。 これは職人やアーティストの世界も同様である。 世界不況あるいは不景気という理由で作品や製品が売れないと嘆く職人やアーティストが多いが、新しい感覚や発想を取り入れようとしていない事が多いようだ。

        そこに我々「画商」の存在理由が生まれてくる。 画商は「いいものを伝えて販売する」仕事であるが、お客が求めているもの、販売現場を肌で感じ理解しているので職人やアーティストに提案することが出来る。 プロデューサーあるいはディレクターの仕事である。 北海道の有名な「熊の一刀彫り」の名人がいるが、この時代は当然売れないから日雇いの仕事をして生活をつないでいた。 

        非常にもったいない状況だったので、全く異なるデザインの「一刀彫り」を提案したら、飛ぶように売れるようになり現在うれしい悲鳴をあげている。 そのヒント、キーワードになるのが「和と洋の融合」である。 自分自身、ファッションのモード画を墨で描き、京都清水寺でサヴィニャック展を開催する事を目標としている。 これには大きな理由がある。 以前と異なり、世界が日本人の感性や伝統を理解し求め始めているからである。 

        フランスのルーブル美術館の紹介ソフトを制作する企画が5年前に持ち上がった。 制作費5億円という大仕事をひとりの日本人に依頼した。 「なぜフランス人じゃないのか?」と聞くと、「全ての分野で日本人の感性は世界一だ。 英語のYes,Noやフランス語のOui,Nonの世界ではない、漢字やカタカナでもない【ひらがな】の感覚でモナリザを解説してくれ」「艶(つや)や衣擦れ、ビンのほつれなどの奥深い表現は日本にしかない」「21世紀は世界中が日本を待ち望んでいるんだ」と説得されたのである。

        フランス人の持つ「ユーモア」や「エスプリ」と日本人の持つ「侘び」や「寂び」が融合する時代が近づいているのである。 日本にサヴィニャック・ファンが増えつつある事と、ルーブル美術館が日本人を選んだ事はその氷山の一角に過ぎない。 日本人はバブル時代にブランドに夢中になったが、今後は金ではなく【心でモノを買う時代】が来た。 「バブルの時にサヴィニャックをやってなくてよかった」と山下氏はしみじみと語った。   
          
         


        約1時間半のトークショーだったが、会場は深い感動と笑いに包まれ、中には涙ぐむ人もいた。 山下氏の表現力、説得力には毎回脱帽である。 割れるような拍手の中、8時半に無事トークショーは終了し、会場は中庭の自由立食交流会へ。 すでに準備の整ったバーベキューマシーンからホタテや牡蠣や肉の焼ける悩ましい匂いが漂ってきた。 

        参加者がそれぞれビールや酒やワインの注がれたコップを手にしながら、バーベキューをほおばり始めた時、トークショーを終えたばかりの山下氏が「少し体調が悪いので大変申し訳ありませんが先に失礼します」とホテルに帰ることになった。 この自由立食交流会を一番楽しみにしていたのは山下氏だった。 心配だったが、健康には全く問題のない山下氏が食べ物をほとんど受け付けない、つまり【断食】に近い状態になったのには別の理由があることを山下氏本人や我々も後に知ることになる。


        自由立食交流会の会場では、それぞれの参加者が思い思いに好きなものを飲んだり食べたり話したりしていた。 木工作家・鬼塚聖貴氏は自然木で作った自前の杯で酒を呑みながらも、フラメンコギターを爪弾きながらチューニングに神経を集中している。 



        鬼塚氏は眼を閉じたままギターを弾き始めたが、その状態はしばらく続くのである。 彼の内部の何かを探っているような、あるいは何かが彼に降りてくるのを待っているような雰囲気である。 会場の視線が彼の表情に集中する。 しかし彼はそのまま弾き続ける。

        そして突然、何かが憑依したように地響きのするような声で歌い始めた。 発声が日本人のものではない。 スペインの広大な大地の赤い土と熱い風を連想するような乾いた歌声とでも言おうか、まさしくジプシーのそれである。 激しく情熱的に、時には語りかけるように優しくスペイン語で物語が進んでいく。





        速魚川ギャラリーと中庭、つまりサヴィニャックの作品展と山下氏のモード画展の境界に、サヴィニャックの有名なトゥルービルのカモメの旗が掛けられた(上の写真)。 このブルーの旗をくぐるとサヴィニャックの世界である。

        昨年の10月に小生のしつこい要望に応えて数枚のモード画を山下氏は同じ中庭に展示してくれた。 その中の一枚に一目惚れした女性がそのモード画を購入してくれた。 今年も会場を訪れてくれたので、山下氏とのツーショットを撮った(下の写真)。   

         

        第二回【 サヴィニャック展 in 速魚川 】 その1

        2012.06.04 Monday

        0
          第一回【 サヴィニャック展 in 速魚川 】を開催したのは、昨年の10月5日〜10日だった。 そのわずか8ヵ月後の今月9日〜17日に、第二回【 サヴィニャック展 in 速魚川 】を開催する事になるとは予想だにしなかった。

          前回の【 サヴィニャック展 in 速魚川 】において、多くのサヴィニャック・ファンや主催者の山下純弘ファンが誕生し、「次はいつあるんですか?」とか「山下さんは島原には来られないんですか?」と問われることも多かったが、実は山下純弘氏の方が島原や速魚川のファンになっていたのである。

                
          第二回【 サヴィニャック展 in 速魚川

             会期:6月9日(土曜)〜17日(日曜)
                             (午前10時〜午後6時)


           ★ 6月9日(土曜)午後7時より《オープニング・イベント》

              峪害悉禮阿離函璽・ショー」
          (無料・予約なし自由参加)

             ◆‘影 午後8時半より 速魚川中庭において

              「自由立食交流会」
          バーベキュー(参加費2千円・予約なし自由参加)
                               ※酒類など飲物の持ち込み大歓迎!

                    木工作家・鬼塚聖貴氏によるフラメンコギターの演奏あり








           

          【 サヴィニャック展 in 速魚川 】 その8

          2011.10.09 Sunday

          0
            「速魚川ギャラリーでのサヴィニャック展は、私にとって頑張ったご褒美癒、あるいは夏休みと位置づけていますからご心配には及びません」と山下氏は気を使ってくれたが、いざサヴィニャック展が始まってみると、連日戦場のようなめまぐるしい出会いに明け暮れることになった。

            宿泊しているホテルと速魚川ギャラリーと半島の温泉をめぐりながら、自然と歴史と湧水の島原を堪能しようと考えていた山下氏の予想は見事に外れたのである。(山下氏は地元の温泉のパンフレットを入念にチェックしていたが、結局一度も温泉につかることはなかった。)

            「サヴィニャック」という地元では聞きなれないポスター作家の作品を、島原半島や長崎県内の人々がどれだけ受け容れてくれるだろうか? という当初の不安をよそに、山下氏の魔法あるいは芸術的とも思える見事なプレゼンテーションによって、多くの観客はサヴィニャックの作品に深い感動を受け元気づけられたのだった。

            下の3枚の写真は、今夜企画されている「山下純弘のトークショー」と交流会を控え、早朝7時に山下氏と二人で普賢岳(平成新山)に祈願に行ったシーン。  ・・・ていうか、市内観光も出来なかった山下氏を例の日産サニートラックに乗って愛犬・ジンの散歩に誘ったのである。 普賢岳の溶岩ドームが一番間近に見える垂木(たるき)台地に行き、遊歩道を歩きながら溶岩ドームを背景に山下氏を撮影。 こんなに普賢岳が似合う男性も珍しい・・・・
             
            「3月11日の東日本大震災の時、すでにサヴィニャック展の開催が決定していた美術館から連絡があり、この未曾有の状況で作品展を開催できるのか?と打診がありました。 私は、この日本の危機的状況だからこそ勇気を出して開催しましょう、とサヴィニャック展の決行を伝えました。」

            日本人の心が傷つき痛んでいる3月にサヴィニャック展は開催された。 大きな余震も続いている不安な状況下で、果たしてポスター展に人が来るのだろうか? 結果は、美術館が始まって以来の驚異的入場者数を記録したのである。 「サヴィニャックには人の心を元気づける何かがある事を、この時確信しました。 リピーターとして何回も訪れる観客も多かったのです。」 

            「世界的不況の影響は銀座でも深刻で、かつて数百のギャラリーがあった文化の発信地・銀座は、現在ギャラリーがわずか30店に激減しました。 国内外のあらゆる有名な芸術、工芸作品を展示しても人が集まらなくなりました。 ところが、このような閉塞的状況下でもサヴィニャックだけは異質で、銀座の商店街組合から 『サヴィニャックで銀座起こしをしてくれ』 と依頼を受けたのです。」

            人々の心が閉塞的な状況になった時、サヴィニャックの 《 商業ポスター》 がなぜ人々の心を惹きつけ元気づけるのか?・・・・ 

            サヴィニャックは一部の高額所得層や知識階級の人間だけを意識したポスター制作はしなかった。 子供から老人までの一般大衆が対象であり、それは商品の購買意欲を促す本来の商業ポスターの目的をはるかに超越したものになっていった。 サヴィニャックの深い哲学と愛情、高度な計算と技術に基いたユーモアとウィット、エスプリを極限まで単純化して表現することで、観る人間から「笑顔」を引き出す事に成功したのである。

            「笑顔」「笑い」こそ、人を元気にする最高の特効薬であることは科学的に証明されているが、映画や演劇のドラマならともかく、たった一枚のポスターでそれを生み出すのは至難の技である。 サヴィニャックはその難題に生涯をかけたのではないだろうか? 笑顔や元気を与えてくれたポスターとその商品に大衆は限りない愛着を感じるはずである。 
             








             

























            【 サヴィニャック展 in 速魚川 】 その7

            2011.10.04 Tuesday

            0
              10月3日(火)の夕方4時過ぎに、山下純弘氏はセカンドバックだけの軽装で当店に到着した。 昨年2月に池袋サンシャイン60階ギャラリーの「サヴィニャック展」でお会いして以来だったが、あの時と同じ満面の笑顔で 「いやぁ〜 ご無沙汰してました」と声を掛けながら店内に入って来た。

               
              これから約一週間、一体どのような展開が待っているのか? こちらの緊張を見透かしたようにリラックスさせる魔法のような言葉が次々と山下氏の口から出てくる。 《 人生は楽しむためにある 》という哲学と、ビジネスマンとしての情熱、山下流ダンディズムを学ぶ一週間がいよいよスタートした。
               

              「サヴィニャック原画展」前日の10月4日、午前中から会場設営が始まった。 数日前に到着していた9個のダンボール箱が2階倉庫から下ろされ、山下氏の手でいよいよ梱包が解かれて作品が次々に姿を現す。 

              半月前に速魚川ギャラリーの平面図をメールで送っており、山下氏の頭の中にはどの位置にどの作品を配置するのかほぼ構想は固まっているようだった。  島原に来る直前まで、大分でサヴィニャック展と山下氏の描いたモード画展を二箇所で同時に開催していたという。 今回は漆喰壁を中心とした初めての和風古民家の会場なので、フランスのサヴィニャック作品と果たして調和するのか? 山下氏の中で、ある種の期待と緊張があったそうである。


              作品が段ボール箱から次々に出され、ギャラリーの壁に並べられていく。  その間にも、いろんな人たちが入れ替わり立ち替わり訪れ、そのたびに山下氏は作業の手を止めてはギャラリーを訪れる誰に対しても丁寧に作品の説明をする。 

              驚いたのは、原画やリトグラフ、オフセットポスターなど本物の作品が、雑誌や本などに掲載されている同じ作品と思えないほど色彩やニュアンスが異なっていることであった。 やはり本物は、色彩が鮮烈で筆の生々しいタッチなども確認できて迫力がある。 絶妙な色の配置やバランス、無駄のない線やデザインからにじみ出ているユーモアやエスプリとその視覚的効果・・・・サヴィニャックが、20世紀ポスターアート界の巨匠と呼ばれる理由が分かるような気がした。


              「パリに住んでいる時に、古くからある画材屋に絵の具を買いに行きました。 ブルーをくれ、と言うと150色ある内のどのブルーだ?と聞かれてビックリしました。 それじゃあ、サヴィニャックの使っていたブルーをくれ、と言うと、その画材屋は即座にその中の一つを差し出し、同じように、ゴッホの 『ひまわり』 に使われたイエローは? と言うと、サッと差し出し、ゴッホが昔、買いに来ていた黄色はこれだ、と言うのです。」

              我々は、オレンジ色が無い時は、黄色と赤色を混ぜ、紫色は青色と赤色を混ぜ、灰色は白と黒を混ぜて・・・と単純に思ってきた。 しかし、2つの色を混ぜることで確かに 『彩度』 は落ちる。 芸術の都・パリにおいて、色彩は命である。 欧州の岩石も含むバラエティーに富んだ広域の土壌は、多種多様の顔料を抽出できる条件が揃っている。 ブルーだけでも150色を画材屋は揃える事ができ、画家はそれらの色を縦横無尽に使いこなして歴史に残る数々の名画を残してきたのである。 もちろん、サヴィニャックもその一人なのだ。


              10月9日から二週間ほどアメリカ合衆国に視察に行く直前で、島原振興局を訪れていた衆議院議員・福田えりこ氏が超多忙なスケジュールを調整してギャラリーを訪れてくれた。 会場設営の途中だったが、箱から取り出したばかりのサヴィニャックの作品について福田氏に説明をする山下氏。

              理屈や理論を話す前に、まず「かわいい!!」と観客に感じてもらうことがサヴィニャック作品に限らず、すべての物事には一番重要だと山下氏は語る。 感性や感情は人間の判断基準の根幹である。  
              いくら口角泡を飛ばし、人に理屈や行動規範を強要したところで人の心はついて来ない。 サヴィニャックは企業の商品ポスターを製作する上で、大衆の感性・感情への強烈な「視覚の一撃」を意識していた。 

              商品の説明をする前に、まず注目させること。 パリの街角に貼られたポスターを車の運転手が見るほんの数秒間が勝負なのである。 そのためには無駄な部分を極限まで削り落とし、シンプルに徹することで強烈なインパクト、エネルギーが生まれることをサヴィニャックは熟知していたのだ。




              40数点という美術館並みの作品群がいったん壁に掛けられた。 しかし、これで完成ではない。  企画・プロデューサーの顔から次第に、画家・山下純弘の顔に表情が変化していく。 ギャラリーというキャンバスに、サヴィニャックという絵の具を配置しながら塗り込んで、一つの山下作品に仕上げていくのである。

              「中庭に面する廊下の壁は太陽の光が差し込んで明るいから、サヴィニャックが晩年を過ごした港町・トゥルービルのイメージです。 従ってここには晩年の作品を配しました。  ギャラリーの室内はそれに比べて暗いので、サヴィニャックにとってピカソの 『青の時代』 と同じ時期の作品を並べてみました。」  「まるで山下純弘にサヴィニャックが降りてきたみたいですね」と言うと、「サヴィニャックの魂は、今このギャラリーにいてすごく楽しんでいます。」と山下氏は笑った。


              「ダンディー」という言葉はこの人のためにある、と山下氏を知っていくうちにつくづく思った。 プロフィールに 「1972年に本場ヨーロッパでの料理修業を経てレストランを経営。」とある。 主にフランスとイタリア両国の料理を中心に修行して帰国、その後約20年間、人気を極めた料理店のオーナーシェフとして腕を振るってきた。 「狭い店でしたが、各界各層の方達からとても可愛がってもらい、スタッフが11名という忙しさでした。 しかし、いつの間にか自分自身に縛りを作っている事に気づき、もっと広い世界に飛び出したくなったのです。」

              さらに 「ヨーロッパでの修行時代に触れたヨーロッパ・アンティーク(TOY)の魅力に目覚め、ロボット・クルマなどのブリキのおもちゃを中心にコレクションを開始。自営のレストランを閉め、1991年に 『ギィ アンティックギャラリー』 を設立し運営する。」とある。 山下氏が44歳の時である。 小生が雲仙普賢岳噴火災害を経て、店を改装し速魚川ギャラリーをスタートしたのも44歳だった。 この年齢は人生の転機を迎える歳なのだろうか? 

              「なんでもやり始めると世界一を目指してしまうんです。」と話す山下氏は、現在、アンティック・ブリキおもちゃの業界でも「世界のYAMASHITA」になった。 この業界を通して映画監督のスピルバーグをはじめ多くのハリウッド俳優、世界的企業の経営者などとも交友が続いている。 ちなみに、スピルバーグの映画「E・T」の最初のシーン(主人公の少年の部屋にUFOの光が照射しおもちゃが急に動き始めるシーン)のおもちゃを提供したのは、なんと山下氏だったのだ(!!)。

              1994年からテレビ東京系列で放送されている長寿番組『開運!なんでも鑑定団』には、アンティックブリキ玩具の鑑定人として最初の2年間だけ山下氏はレギュラー出演していた。 その後、仕事の関係で、当時、弟子であった北原照久氏を紹介して番組を降板した。 現在、北原氏は番組の顔として国民的人気を得ている。

              ヨーロッパの骨董市での買い付けの話は特に面白かった。 早朝3〜4時に骨董品を積んだそれぞれの業者のトラックが会場に到着するのを待ち構えるように、山下氏たちプロのディーラー達は荷下ろしされる現場で「掘り出し物」を買い付けるのだ。 「品物を手に持った時しか、本人に売買権利はないのです。 いったん、床に下ろすと別のディラーがその商品を手に持ち、自分に権利はなくなるシステムです。 従って、品物の鑑定は手に持っている一瞬が勝負なのです。 まだ真っ暗闇なので持参した懐中電灯の明かりだけを頼りに買い付けをしなくてはならない。 随分苦い失敗もしながら経験を積みました。 恐ろしい世界です。」

               
              矢沢永吉が好きでした。」と話の中で語った山下氏の顔立ちや雰囲気は、確かに矢沢永吉と仲代達也と岩城滉一をミックスしたイメージである。 そう話すと、「岩城滉一とは若い頃、ケンカしそうになったことがあります。 よく行くカフェの入り口にハーレーのバイクが2台とめてあり、その1台に岩城滉一が乗って寝ていました。 お客様の出入りに邪魔になるから少し移動してください、と注意すると怒り始め口論になった。 そこに岩城滉一の相方の舘ひろしが出てきて訳を聞き、おまえが悪いと岩城氏を諫めて一件落着したのです。」

              「その岩城滉一とは国内のオートバイレースで再び競い合うことになりました。」・・・・・もう・・カッコ良過ぎますよ、山下さん!  YOU TUBEで、「山下純弘」を検索したら、ビンテージ・バイクのサイドカーに愛犬を乗せて走る彼を見ることが出来る。 当時まだ「鉄馬」と呼ばれていた単気筒600ccの英国製バイクにまたがる山下氏。 ちなみに、1980年代から英国の小型車「ミニ・クーパー」ブームが日本で起こるが、その火付け役はなんと山下氏だった(!!)


              山下氏は現在も、アンティックのブリキおもちゃやサヴィニャックのポスターのディーラーとしてフランス、イタリアを中心に年に何回も欧米を行き来している。 「フランスのアパートを一部屋借りています。 もしフランスに旅行に行かれる時は、遠慮なく使ってください。 イタリアには知り合いの日本人が宿屋をしていて、格安の料金で泊めてくれます。」と教えてくれた。

              東京でレストラン経営をしている頃、一ヶ月以上店を閉めてイタリア、フランスなどヨーロッパの隅々まで足を延ばした。 山奥の田舎町で、味わったこともない美味しい料理や食材、ワインなどを見つけては買い付けて東京に持って帰り、レストランで出すのである。 「一ヶ月以上も店を空けると、せっかくついたお客達が逃げるぞ」と言った知人たちの心配をよそに、店は逆に益々繁盛していった。

              「発想の転換」を山下氏は身をもって実行していたのである。 確かに仕事や生活の現場から離れることで、現場や自分自身が見えてくる事は多い。 ささやかながら小生も月に2度しかない休日は島原半島を脱出する事にしている。 リフレッシュや情報収集の意味もあるが、島原や自分の店、あるいは自分自身を客観的に眺めて反省するためである。


              パリ在住時代の山下氏は、「パリ・コレクション」にも足を運び、世界のファッション業界にも精通することになる。  「なぜフランス人はセンスが良い、と言われるか?  貧乏だからです。 お洒落をしたい年頃になっても、お小遣いは少ししかもらえない。 少ないお金で自分を魅力的に見せる工夫をするのです。 ただ単純にブランド志向に走りがちな金持ちの日本人には育ちにくい感性かもしれません。」

              若い時にお金で苦労することは、ある意味で大切なことかもしれない。 お金の有り難さと恐ろしさ、「ない」事で、知恵やアイデアが湧き出てくる事を知ることができる。 同時に他人の気持ちや考え方も理解できるようになってくる。 「若い時の苦労は買ってでもしなさい」と昔から言われる理由がわかるような気がする。 


              山下氏の語るそれぞれの話には、深い哲学と洞察、そして多くの示唆が含まれている。 旧知の仲である唐津市在住の金属彫刻家・田邊朗氏に、ロボット制作を勧めてプロデュースしたのは山下氏だった。 初めて制作された田邊氏のロボットは、山下氏の「ギィ アンティックギャラリー」のショー・ウィンドウーに展示された。 それが雑誌 『 ラピタ 』 の表紙を飾ることになるのだが、その後、米国・ナイキ社の社長に買い取られ、さらにナイキ社長の熱望により田邊氏は十数台のロボットの連作を、彼のために制作することになった。 山下氏はその際に「田邊氏のロボット作品をいずれ展示公開していただければ」と条件をつけたのである。

              「実は、田邊氏のロボットをオーダーした背の高いアメリカ人が、ナイキ社の社長であるとは知らなかったのです。 シカゴで開催されたアンティックおもちゃのショーにディーラーとして参加した際に、彼が私のブースに来てくれて多くの商品を買ってくれました。 その後、他のブースの同業者から 『 おまえ、なぜ彼を知っているんだ?  彼はナイキの社長だぞ!』 と教えてくれたのです。 社長は自家用ジェット機で世界中を飛び回っていますが、ボディーガードもつけずに地下鉄に乗ってあちこち移動する人です。 東京で名刺はもらっていましたが、職業は書いてなかったものですから・・・」

              ナイキの社長が、山下純弘氏のコレクションするアンティークおもちゃだけでなく、人柄や豊富な知識にも惚れ込んだことは想像に難くない。

              ロボットといえば、本田技研が開発した有名な二足歩行ロボット 『ASIMO(アシモ)』 の設計段階で、ロボットの基本理念のレクチャーに呼ばれたのが山下氏だった。 『ASIMO』 の基本デザインには山下純弘の思想が色濃く反映されていることをほとんどの人は知らない。


              山下氏のギャラリー名、「ギィ アンティックギャラリー」の「ギィ」の由来を聞いたら、フランス映画 『シェルブールの雨傘』 の主人公・ジュヌヴィエーヴの相手役・ギィから取ってあるそうだ。 ジュヌヴィエーヴを演じたのは、当時(1960〜70年代)、世界中の男性を魅了していた女優・カトリーヌ・ドヌーヴで、山下氏は彼女の大ファンだった。 1964年にカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した不朽の名作で、戦争が愛し合う二人の運命を変えてしまった悲恋物語のミュージカル。
               
              戦場に赴いた自動車整備工「ギィ・Guy」の気持ちが男性として痛いほどわかる。 愛し合いギィの子供を身ごもった女性は、なぜ彼を待たずに他の男性(宝石商)と結婚してパリに移住したのだろう?  5年後の雪の夜に、すでに結婚して息子・フランソワもいるギィが経営するガソリンスタンドに1台のベンツが入ってくる。 運転席にはジュヌヴィエーヴ、助手席にはギィの娘・フランソワーズ・・・・  偶然の再会と短い会話、それが最後の別れになるであろう二人。  切な過ぎる・・・

              女優・ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが共演したイタリア映画 『 ひまわり 』 も、その切なさにおいて、どこか似ている。  「Guy Antique Gallery」・・・ 山下氏の語る物語を聞くと、そのイメージが深まりながら変化していくから不思議だ。

              【 サヴィニャック展 in 速魚川 】 その6

              2011.10.01 Saturday

              0
                「サヴィニャック原画展」のつたない自作ポスターを茶房の入り口ドアにも貼ったので、アルバイトをしてくれているサヤちゃんとリエちゃんの二人に頼んで写真を撮ることにした。(下の写真) さわやかな二人が花を添えてくれたことで、素敵な雰囲気の写真が撮れました。 ありがとう!!
                 





                店舗内の写真を撮ったデジタルカメラを三脚に装着したままにしていたら、三女が「イタズラ」をしていやがった。 パソコン画面にカメラ内の画像を出したら変な写真が一枚(上の写真)。 「な、なんだ!? これは!」と、仰天して「・・・あ、あの野郎!!」と思った時は後の祭り。 イタズラした張本人は夏休みが終わるので数日前に北九州に逃亡した後だった。

                この大人をおちょくったような表情を見た時、昔ラジオで聴いて大笑いした伊武雅刀の朗読を思い出した。 まさしくユーモアとエスプリが効いた「大人気ない」オトナの朗読劇で、「子供心」や「遊び心」がないと書けない詞である。 特に「私は子供に生まれないでよかったと胸をなでおろしています」は圧巻である。 ティーン・エイジャー最後の歳になった三女に言いたい。 どうか「大人達を責めないで」。


                「子供達を責めないで」  作詞:秋元康 朗読:伊武雅刀

                 

                私は子供が嫌いです。
                子供は幼稚で 礼儀知らずで 気分屋で

                前向きな姿勢と 無いものねだり心変わりと 出来心で生きている
                甘やかすとつけあがり 放ったらかすと悪のりする

                オジンだ 入れ歯だ カツラだと はっきり口に出して人を囃したてる無神経さ


                私ははっきり言って“絶壁”です ・・・“絶壁”です・・・“絶壁”です

                努力のそぶりも見せない 忍耐のかけらもない 

                人生の深みも 渋みも 何にも持っていない 

                そのくせ 下から見上げるようなあの態度
                家事の時は足手まとい 離婚の時は悩みの種 いつも一家の問題児

                そんなお荷物みたいな そんな宅急便みたいな そんな子供達が嫌いだ


                私は思うのです  この世の中から子供がひとりもいなくなってくれたらと

                大人だけの世の中ならどんなに良いことでしょう

                私は子供に生まれないでよかったと胸をなで下ろしています

                私は子供が嫌いだ! 私は子供が嫌いだ!

                子供が世の中のために何かしてくれたことがあるでしょうか?

                 いいえ! 子供は常に私たち大人の足を引っぱるだけです
                身勝手で それに足が臭い!
                ハンバーグ エビフライ カニしゅうまい
                コーラ 赤いウインナー カレーライス スパゲティナポリタン
                好きなものしか食べたがらない 嫌いな物にはフタをする
                泣けばすむと思っているところがズルイ


                何でも食う子供も嫌いだ!
                スクスクと背ばかり高くなり 定職もなくブラブラしやがって
                逃げ足が速く いつも強いものにつく

                あの世間体を気にする目がいやだ あの計算高く物欲しそうな目がいやだ 

                目が不愉快だ  何が天真爛漫だ 何が無邪気だ 何が星眼がちなつぶらな瞳だ!


                そんな子供のために 私達おとなは 何もする必要はありませんよ
                第一私達おとながそうやったところで ひとりでもお礼を言う子供がいますか?
                これだけ子供がいながらひとりとして 感謝する子供なんていないでしょう
                だったらいいじゃないですか それならそれで結構だ
                ありがとう! ネ! 私達おとなだけで 刹那的に生きましょう! ネ!

                とにかく私は子供が大嫌いだ! 離せ! 俺はおとなだぞ!!

                誰が何と言おうと 私は子供が嫌いだ! 私は本当に子供が嫌いだあああああ!
























                 

                【 サヴィニャック展 in 速魚川 】 その5

                2011.09.30 Friday

                0
                  気温が少し下がり、肌を撫でていくさわやかな風に秋を感じられるようになった。 「もう10月なのになんでこんなに暑いんだよ!」と、持って行き場のない怒りを自分自身にぶつけていた昨年の9月を思い出す。 夏のジリジリ焼きつける暑さが、冬のズーンと底冷えする寒さが好きだった若い頃が嘘のようだ。

                  フランスの街はどんな気候だろうか? サヴィニャックが生まれ育ち、休むことなく仕事をしたパリや晩年に移り住んだカモメの飛ぶ港町トゥルービルは?・・・・  山下純弘氏から送られてきたサヴィニャックの資料を読みながら、心はいつの間にか行った事もないフランスの街を漂っている。

                  山下氏は3日の夕方に大分からバスで島原に着くという。 3日から10日の最終日まで初めての島原を過ごす予定だ。 1972年まで料理修行のために永年住んでいた良き時代のヨーロッパの話を聞けるはずだ。


                                                 『 ギャラップ 』  1953年


                                                                     『 ル・フィガロ 』 紙    1952年


                                                                        『 ダンロップ 』    1953年

                  「 ダンロップ社がポスターを描いて欲しいと私のアトリエにタイヤを1個送りつけてきた。 あれには参ったね。 置き場所はないし、重いし、黒いし、だいいち美しくない。  どうにもなじめない代物だった。 」

                  「 4個のタイヤのあいだに坐っているオジサンを描くだけで、ダンロップ・タイヤの持ち主の幸せいっぱいな感じはちゃんとつたわる。 余計なものいらない。 私は必要最低限のものを残した。 タイヤと運転手である。 」


                                               『 ダンロップ 』   1953年


                                                                           『 映画の大舞踏会 』   1953年


                                              『 オパル 』   1953年


                                                 『 ジターヌ 』   1953年


                                            
                   『オリヴェッティ・レクシコン』    1954年頃

                  フクロウのイメージは 「知的・静か」。 この絵はそんなフクロウのイメージから 「打ち心地が滑らかで静か」 な事を表現。 このシリーズには他にもウサギのイメージ 「速さ」 や、カバのイメージ 「丈夫さ」 をモチーフにしたものがある。  動物を描くことでそれぞれのイメージを連想させ解り易くタイプライターの性能をアピール。 サヴィニャックの人気がある作品はいつも子供や動物が描かれている。 


                   
                                             『 ヴェリグゥド 』   1955年

                  オレンジ、レモン、グレープフルーツ、マンダリン味の清涼飲料水。 その名称は英語の「Very Good」の発音に由来。 イタリア版ポスターなので綴りがフランス版と異なる。


                                                                                     『 ライフ 』 誌   1955年

                  雑誌「ライフ」のポスターをサヴィニャックが手がけたのは、1955年のこと。  飛ぶ鳥を落とす勢いのポスター作家を、アメリカの広告業界が放っておくはずはない。 この仕事を担当した女性エージェントのおかげで、サヴィニャックはアメリカの現代的な広告制作のスタイルにうんざりしてしまう。 ひとつの広告をつくる作業を細分化し、多くのスタッフの分業によってつくりだすシステムは、今ではごくあたりまえ。  だけどサヴィニャックはひとりが好きだった。 全部自分でやりたい職人気質の頑固者だから、広告代理店なんか大嫌い。

                  「 仕事を請け負ったら、私は一から十まで自分の思いどおりにやりたくなってしまう。 でもアメリカ人はそれを許してくれない。 だから結局、私はアメリカ人ともエージェントのバーバラ某とも仕事はしなくなった。 」

                  「 連中は、技術ではなくアイデアで、凡庸さではなく才気で、恐怖ではなく勇気によって広告がつくられるということをまったく理解できないのだ。」


                                                   『 ライフ 』 誌    1955年


                                              『エールフランス航空』   1956年

                  「エールフランス」のポスター56年版では「世界で一番長いネットワーク」を表すために首の長さが自慢のキリンが登場。 エールフランスがカバーしている国の国旗が長い首にペタペタと貼り付いている。 このわかりやすさは、サヴィニャック50〜60年代の真髄だろう。 この頃、広告代理店がぐんと力を持つようになり、共同作業が苦手な彼にとって、苦難の時代に突入する。

                                              『 ビック 新しいボール 』   1960年

                  「BIC」は1953年、マルセル・ビック氏によって設立。 サヴィニャックの仕事の中でも「BIC」との付き合いは長く、1951年〜1966年まで延べ15年に及んでいる。 その中でも特筆すべきは、サヴィニャックのデザインから1960年に生まれた通称〜BIC BOY〜と呼ばれる頭がボールになったキャラクターの登場である。  この〜BIC BOY〜は、現在も「BIC」のロゴとして世界160カ国で活躍している。


                                             




                   

                  【 サヴィニャック展 in 速魚川 】 その4

                  2011.09.28 Wednesday

                  0
                    サヴィニャックのポスター写真を添付する準備をしていたら、山下純弘氏から先ほど電話があった。「ポスター作品を本日そちらに直送しました。 段ボール箱9個分です。」とのこと。 その他の段取りも話し合った。  

                    ポスターは色彩が重要な要素。 資料からスキャンしたポスター写真を、フォトショップで色調整しようとしてもなかなかうまくいかない。 一つの色を現物と合わせたら他の色がずれてくる・・・・ 最後はいつものパターン、【テキトー】でやっつけることにした。 原画とはぜんぜんニュアンスが違うんだろうなぁ・・・

                    会期も近づいてきたので、再度スケジュールを添付する。   20世紀最大のポスター作家・サヴィニャックの長崎県初の原画展はもうすぐ開催される。


                      【 サヴィニャック展 in 速魚川    

                          
                        
                       会期:2011年10月5日(水曜)〜10日(月曜)

                           (午前10時から午後6時まで)
                         


                           
                           ★  10月 9日 (日曜日) 午後7時より 山下純弘氏のトークショー 

                                    参加希望者は予約してください。(0957ー62−3117 猪原金物店)

                                    参加費は無料。 各自《一品持ち寄り》による交流会になります。

                                    山下純弘氏による【サヴィニャックが愛したスウィーツ】を味わってもらいます。


                                                         『 チェス 』 原画   1950年

                    真剣にチェスを指す男の下半身を見れば、実は彼自身もチェスの駒だった。 下の写真は、そのチェス男と対局中のサヴィニャック。  この原画はポスターのために描かれたものではない。



                                          『 ウット毛糸はひとりでに編める 』  1950年

                     
                    自分の身体を編む女・・・・私は彼女に両手をあげさせ、最後に髪の毛を編みおえたら出来上がりとというポーズを考えた。 このアイデアには二つの取柄があったのだ。 ひとつは、可愛らしい女性の動きがより魅力的になって、見ていて楽しいこと。 もうひとつは、絵に上昇感という動きが生じたこと。 」

                                アイデア・・・・・ポスターに加えられたひとつまみの塩
                                         ポスターを鮮やかにし、印象を強め、忘れがたいものにする。
                                         アイデア、それはコロンブスの卵。

                                       『 アストラル・エナメルペンキ 』    1952年

                    「 私がポスターに盛り込もうとしたのは陽気さである。 それはユーモアというより、むしろ上機嫌の気分といっていい。」 

                     
                    アールデコの巨匠カッサンドルに学び、ユーモアあふれる優しいタッチの絵柄を特徴とし、「視覚ギャグ」、「ビジュアル・スキャンダル」という言葉を生み出したサヴィニャック。


                                                 『 ランクハム 』   1951年


                                           『 1951年 パリ誕生2000年 』   1951年


                                                         『 ヘット・ラットスト・ニュース紙 』    1952年


                                                 『 ペリエ 』  1949/55年


                                                   『 毛糸の15日間 』    1951年


                                                      『 チンザノ 』   1951年

                    「 ポスターは繊細すぎてはいけない。 素朴でなければならない。 だれにでもわかりやすい言葉で語りかけるべきなのだ。 要するに一目瞭然がベスト。 」   

                    赤と青に分割されたシンプルで強烈な画面の中、サーカスの曲芸さながらに危なっかしいステップを踏むシマウマ。 ちなみにシマウマはチンザノ社のキャラクター、赤と青も同社のシンボルカラー。
                    なるほど、【視覚の一撃】である。


                                            『 マットレス・ダンロピロ 』   1951年

                    ダンロップ社製マットレスの広告。 朝の目覚めを気持ちよさそうに伸び起きる様子を人間とマットレスを一つにする事で表現。 サヴィニャック曰く「ポスターは単純にして明快でありグラフィックの道化である物」


                                            『 ペリエ、プシュッと音がする水 』  1951年


                                                                           『 トレカ 』    1952年頃

                    マットの中身は? スプリングと羊毛! 彼の表現はいつもシンプル。 原画では羊の前足が3本、出来上がったポスターでは2本・・・・・  サヴィニャックは、スプリングの付いた子羊がマットレスから飛び出し宙をバタバタと前足でかく動きのある子羊を描きたかったのでは? 



                                             『 あなたのお仕事に電力を 』  1952年


                                                                       『 毛糸の15日間 』   1952年

                    羊毛のキャンペーン・ポスター。  羊毛の魅力といえば暖かさ、なのに黒と緑という暗い色調で処理する大胆さが憎い。  肌にさりげなくほどこされた赤も効いている。


                                                                       『 父の日 ネクタイを贈ろう 』  1952年


                                                                        『マツダ・パール』     1952年

                    【 サヴィニャック展 in 速魚川 】 その3

                    2011.09.18 Sunday

                    0
                          ★ 1947年    勤務時間中にチェスをしていたのが見つかり、広告コンソーシアムから解雇される。(39歳)
                            (昭和22年)

                          ★ 1949年    5月20日、アトリエを間借りし友人でもあったヴィユモと共に二人展を開催。
                            (昭和24年)  当時、ヴィユモはすでに有名で展示するポスターもあったが、ほとんど仕事もなく
                                      ポスター作品を持たないサヴィニャックは仕方なく何点かの原画を展示。
                                      展示会のポスターはサヴィニャックが担当したのだが、まだ無名のサヴィニャックは
                                      特徴をつけるためにヒゲを描き込んでしまい、やむなくヒゲを生やす事となる。
                                      結局これから後、ヒゲはサヴィニャックの一生のトレードマークとなる。


                                         レイモン・サヴィニャック  『ヴィユモとサヴィニャックのポスター展』  1949年

                                      この展示会で彼の一生を一変させる出来事が起きる。 展覧会初日の5月20日
                                      かつてチェスが見つかり首になった広告コンソーシアム兼モンサヴォン社の
                                      社長ウジェーヌ・シュレールが展示会を訪れる。
                                      そこでシュレールは小首をかしげたピンクの牛のポスターを見つけて歓喜する。

                                         「 おお!サヴィニャック君! 私のためにこんな素晴らしいポスターを
                                          作ってくれたんだね! 」

                                      しかし、この原画は以前広告コンソーシアム時代に描いたもので、当時お蔵入り
                                                      していたのをサヴィニャックが展示会のために借りてきていたのだった。
                                       
                                         「 この絵はあなたが私から買ったんですよ、6ヶ月前に。  
                                              元々あなたの依頼で描いたのですが・・・・」

                                      とサヴィニャックは驚いて答えた。 シュレールは言った。

                                         「 こいつは凄いぞ! すぐに印刷させよう! 」

                                      小首をかしげ、切ない眼でこちらを見つめる牝牛は、パリの通りを歩く人々を
                                      たちまち虜にした。
                                      結局このポスターがきっかけとなり、サヴィニャックは事実上鮮烈なデビューを飾る事となる。
                                      彼はその26年後「私は1949年以来、あまり仕事を休んでいない」と語っている。
                                      当時、サヴィニャックは41歳。 遅咲きのデビューであった。

                                         「私は41歳で生まれた。 モンサヴォン石鹸の牝牛の乳首から。
                                          このほとんど伝説的な誕生によって、私はそれまでずっと
                                          探し求めていためくるめく光の中へ、美術のいわば晴れ舞台へと
                                          躍り出た。  そしてけわしい道をたったひとりで歩みはじめた。」



                                『France-Illustration』 1949年6月11日号より ヴィユモ&サヴィニャック二人展の会場。

                      当時、新進ポスター作家ベルナール・ヴィユモ(1911〜1989)のアトリエで、「私たちは大いに仕事をした。 だが残念なことに収入はほとんどなかった。」  打開策としてヴィユモはある提案をする。 「商売がうまくいかないなら、展覧会を開くしかないな。 僕達に出来ることを連中に見せてやろうじゃないか。」 サヴィニャック自身は乗り気ではなかった。 しかし状況を打開する手もない。 展覧会にはポスターのための「原画」をそれぞれ12点ほど並べる事に決めた。


                                             『牛乳石鹸モンサヴォン』  1948年〜1950年


                                      パリ13区 地下鉄コルヴィザール駅にて 1951年 ロベール・ドアノー撮影

                       
                             自作原画に囲まれてすっかりご機嫌のサヴィニャック  1950年 ロベール・ドアノー撮影