猪原金物店・コラム明治10年に創業。九州で2番目に歴史の金物屋。
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『心の旅・2013』 17:33
人は皆《この世の旅人》と言われるが、確かに我々人間は「体験すること」を目的に、肉体という道具を駆使して、わずか80年ほどを駆け抜けているのかもしれない。

今月の10日に、公私ともに大変お世話になり多くの事を教えて頂いた長崎の篠原先生が他界された。93歳だった。21日に御仏前にお参りに行った際、三女・りつ子さんから篠原先生の潔い逝きかたを聞いて感動した。延命治療はすべて拒否し、自宅において水すらも摂らず静かに旅立たれたという。ところが、息を引き取られる前日の午前11時2分に、こん睡状態のはずなのに合掌されたのだ。長崎に原爆が投下された時刻である。父の死が迫っている事を覚悟していたりつ子さんは我が眼を疑ったそうだ。

93歳まで、数えきれないほど多くの人々の魂を救済し導いてきた篠原先生は、原爆で一瞬にして亡くなった多くの無縁仏の御霊も一緒に伴って旅立つために、8月9日まで待たれたのではないだろうか? ご冥福をお祈りすると同時に、今はゆっくり休んでいただきたいと思う。

りつ子さんと彼女の友人である照山氏が二人で当店を訪れたのは今年の4月だった。岡山の真言宗の僧侶である照山氏は、この時すでに篠原先生から「5,6,7月の三か月間、島原半島の多くの御霊(みたま)を鎮魂するように」というミッションを受けていた。そして5月から月に一回ずつ二泊三日の行程で岡山から来島し、半島のあちこちを巡ることになった。鎮魂の旅である。ご縁により我々も同行することになった。照山氏から言われた通りに速魚川の湧水をペットボトルに何本も詰めて・・・・

以下の写真は、7月の最終ミッションで廻った伊木力と島原半島・雲仙市の一部。8日(月曜)の正午に諫早駅に到着した照山氏を車で迎えに行ったら「今から長崎の篠原先生にお会いするのが自然の流れでしょうね。」と、最初の予定地、雲仙市・千々石(ちぢわ)町を急きょ長崎に変更することになった。篠原先生宅に行くと、先生はお元気で我々二人を迎えてくれた。今から思えば、この日が先生とお会いする最後になったのだ。

篠原先生と真言宗僧侶・照山氏の会話や真意は我々俗人の常識を遥かに超えており、理由や意味は時間が経過しないと理解できない。従って「なぜ?」とか尋ねる前に、まず動くことが大切だとわかっていた。「大村湾の見える伊木力(いきりき)にある千々石ミゲルの墓に今から行かねばならない」と二人の話が決まった時、場所も知らず行ったこともなかったが覚悟を決めた。


照山氏と小生は車で長崎市内を抜け、長与町から女の都(めのと)を経由して、坂道の国道を登りきり、峠のトンネルを抜けた。下り坂にかかった時、山の斜面一体にミカン畑が見え始めた。「あぁ、これが全国でも有名な伊木力みかんの産地ですね」と話しながら、最近、地元メディアで紹介されて注目を集めている『千々石ミゲルの墓』が一体どこにあるのか、車を走らせながら気をもんだ。所在地を地元の人間に尋ねたくても下り坂の道路沿いに民家はない。

しばらく走ると、とうとう大村湾が見え始めた。「通り過ぎたかなぁ?」と思った時、道路沿いに売店があった。車を止めて尋ねると、その売店の脇道の数百メートル先に『千々石ミゲルの墓』があることがわかった。詳細な地図も持たずに効率良く引き寄せられるように目的地にたどり着く事ができたのだ。




上の写真は、『千々石ミゲル』の墓。墓石の前には献花やマリア像やロザリオなどがたくさん奉納されていた。キリスト教の信者が多く訪れているだろうか? 照山氏が墓前を清掃し、持参したお酒と速魚川の湧水を周りの地面に撒いた後、線香を焚いて読経を始めた。

千々石ミゲルの墓に対峙する照山氏の後ろで合掌をしながら、やはり「なぜ今、千々石ミゲルなのだろうか?」と自問した。天正年間(1582〜90年)、ローマに派遣された天正遣欧使節の4名に選ばれたミゲルは帰国後、イエズス会に入会するも10年ほどで脱会し、名を清左衛門と改め、慶長11年(1606年)のバテレン追放令の際は、キリスト教を邪宗と進言し、自らもキリスト教を棄てて日蓮宗に改宗した、とある。(下の写真)

今から400年前、千々石ミゲルの心に一体何が起こったのだろうか?・・・天正遣欧使節の残りの3名、原マルチノ、伊藤マンショ、中浦ジュリアンは帰国後もキリスト教を信仰し続け、殉教した。激動の時代に翻弄されながら数奇な運命を辿ったミゲルの魂を、時空を超えた現代にあえてなぜ鎮魂しなければならないのか?・・・・その本当の理由を、篠原先生と照山氏は知っている・・・

照山氏は読経が終了すると、我々二人の名前と住所を声に出して告げ「ただ今から、貴方の生まれ育った島原半島・千々石町に向かいます」と言った。すでに午後4時を過ぎており、大村湾を左手に見ながら諫早市を経由して、島原半島の愛野町から千々石町に向かった。この日、照山氏は小浜町のホテルを予約していた。



岡山の大きな真言宗寺院の家に生まれた照山氏は幼少の頃から「眼に見えない世界」への理解力や霊的能力が強い女の子だったという。日蓮上人が修業した甲斐の身延山(みのぶさん:山梨県)から眺められる「七面山」に母と連れだって登り10日間修業したのが10歳の頃だったという。

鎌倉時代、身延山の日蓮上人の説法を聴くために大勢の人々が集まっていた。その聴衆の中に周りの眼を引くほどの若く美しい女性がいた。日蓮上人が「どちらから来られたのですか?」と尋ねると「七面山です」と彼方の山を指差した。彼女は七面山の龍だった。島原市街地の背後にそびえる眉山(まゆやま)は、七面山と天狗山が連なった山である。北側の高い七面山には七面神社が祀ってあり、ご神体は赤龍(せきりゅう)。市内にある護国寺(日蓮宗)が管理している。

照山氏はキリスト教も含めたあらゆる宗派の研鑚も怠らず、同時に真言密教の修業も極めてきた僧侶である。従って長崎の篠原先生に初めて会った瞬間、人格も含めた力の偉大さを理解し先生の指導を仰ぐことを決心したという。篠原先生もこの世での自分の寿命が尽きる時期を考慮され、照山氏に最後のミッションを託したと思えるのだ。

しかし、篠原先生の長い人生における最後の仕事が、なぜ島原半島だったのだろうか? 千々石ミゲルだったのだろうか? なぜ?とか、理由や答えを性急に求めたがる悪い癖がなかなか治らない。人生は人の最期に完成するジグソーパズルなのだから、今はひとつひとつのピースを無心にはめ込めばいいだけである。人生のつじつまが最期に合致した時、答えがわかるのだろう。






















| 『心の旅・2013』 | - | - | posted by ino-haya - -
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