『戦時下の町内地図』

2014.09.14 Sunday

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    当店の所在地である【上の町(うえのまち)】の町内会長・清水純一氏から先日、一枚の古地図(!?)を預かった。数週間前に「戦時中の町内の地図が我が家の倉庫から出てきました。ゼンリンの地図みたいに正確に描かれているのですが、各家の井戸の位置や防火水槽の位置まで記録されていました」と来店した清水氏から聞いていた。「昭和19年2月26日作成」と記述された町内の地図は、明らかに敵機による《空襲》を想定した避難と防火体制の強化を前提に描かれていた。

    上の町に限らず、市内の中心地は1〜2メートルほど地面を掘ると水が浸み出て来る。従って、各家には飲料用も含めた生活用水のための深さ数メートルの浅井戸が設置されていた。その井戸の正確な位置と、道路沿いの一軒ごとに設置された防火用水の位置が地図に描かれている。「本土空襲は近い」と終戦の一年半も前から政府が判断したのだろうか。この年から都市部では学童疎開が始まっている。



    上の写真が全体の地図(53cm×37cm) 昭和19年(1944年)2月作成と記述されているので、今から約70年前の上の町の様子が垣間見える。表題「上ノ町第二区町内會」の右側に、縮尺の目安として「0〜10〜20間」が目盛で記されている。(当時の尺貫法で1間(けん)=6尺=約1,818m。現在も土地の面積表示に使用されている単位【坪】は1間×1間)




    上の写真(地図の右下)に万年筆で書きこまれた文字が生々しい。

         避難者   131名
         実際に
    家底に於ける防空可能者  100名
         昼間活動し得る者  94名
         夜間活動し得る者  131名
         戸数  63戸
         人口  330名

    今から23年前の雲仙普賢岳噴火災害の時に『眉山崩壊』の可能性を認識した我々は【死】を覚悟して生活していた。同様に今から70年前の同じ町内に生きていた人々は『空襲爆撃』による【死】を覚悟して生活していたのだ。




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