猪原金物店の防空壕(!?)

2003.09.13 Saturday

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    当店の正面入り口から入ってすぐ左側の床に、木製の扉(900mm×2,000弌砲あることに気づく人は少ない。 (添付写真は上の陳列台をずらして撮影したところ)
    さらに、店舗から茶房&ギャラリー速魚川に続くモルタルの通路の床の下が、実はすべて地下室(防空壕)になっているのだ。
    防空壕の上を我々家族や来店客は毎日、行き来している事になる。
    なぜ、金物屋の地下に防空壕があるのか?
    戦時中に慌てて店内の地下に防空壕を掘り、床のモルタルの厚みを20センチ以上にして、頑丈な木の扉を二箇所も作らなければならなかった理由は何なのか?
    小生は過去に2回、この防空壕に入ったことがある。
    最初は中学生の時、木の扉についている頑丈な折り畳み式の鉄の取っ手を持ち、思いっきり引き上げて、扉を開けた。
    コンクリートで作られた階段は真っ暗な地下室に続いていた。
    懐中電灯を持ち、恐る恐る中を探検したが、床も壁も天井もコンクリートで出来ており、床は膝と踝(くるぶし)の間ぐらい(約20センチ)まで水に浸っていた。
    「どうして水が入っているの?」と尋ねると、「昭和32年の諌早大水害の時の水が残っているのだろう」という答えだった。
    当時は島原も水害はひどく、当店も床上まで浸水したという。(あの島原城のお堀がいっぱいに水で満たされ、外周道路から手を伸ばせば、お堀の水に触れられたという!?)
    平成10年に当店の改装をした際、この防空壕も地下店舗として利用したかったが、予算の関係で断念せざるをえなかった。
    その2年後、再度、店舗として検討するために木のハッチを開け、防空壕に下りてみた。
    床からの水位は昔のままで、今度は内部を丁寧に点検した。
    地下室は幅2メートル、長さ6メートルの長方形で天井までの高さは6尺(約1,8メートル)。
    天井のコンクリートを打設する際の型枠は、なんと丸太を並べて使った事がわかった(!?)。
    型枠の丸太は工事後もそのままにしておく「埋め殺し」工法である。
    当時(昭和20年頃)を想像すると・・・・敗戦が近くなり、東京、大阪などが空襲で焼け野原になり、島原などの田舎にもグラマン戦闘機が空襲に来ていた時期らしく、いつB−29爆撃機が来て爆弾を落とされるかわからない不安の中で、この防空壕は慌てて掘られたのだ。
    店舗の床を人力で掘り、床と壁を先にコンクリートで仕上げ、天井部分は型枠として丸太を横にびっしりと並べ、その上からコンクリートを練って流し込んだのである。
    天場、つまり表の店舗側床面は丁寧に左官が仕上げたらしく、現在も表面はつるつるでびくともしていない。
    従って、地下室内部から見ると、当時、天井はすべて丸太だった。(現在、丸太はほとんどが朽ち落ちて、天井は丸太型凹面のコンクリートがきれいに波打っている)。
    さて、この防空壕の「目的」であるが、「在庫していた天然砥石を収納し空襲から守るため」・・・らしい。
    確かにこの防空壕に人が入って、家に直撃弾を受ければ、家屋そのものが崩壊し、おまけに火災に遭うと、中の人間は酸欠、蒸し焼き状態になる。
    天然砥石は何億年もかけて出来た化石の一種だ。
    他の商品と違い二度と作る事が出来ない。
    爆風や焦熱で破壊される事が一番の致命傷になる。
    そして、当時の金物屋や大工などの木工職人にとって天然砥石は命の次に大切なものだったのである。
    地球の残した宝物であり、職人の魂であった天然砥石がこの防空壕を作らせたということになる。
    戦後約60年の歳月を経てもなお、戦争の記憶と共にこの防空壕は当店の地下に存在し続ける・・・・・


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