猪原金物店・コラム明治10年に創業。九州で2番目に歴史の金物屋。
金物店の裏では喫茶店も営業しています。

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『 薩摩のアームストロング砲弾 』 22:39
ここ数年、自分の人生の出来事で謎に包まれていた部分のヒントや答えが、些細な事から突然見つかる頻度が高まっているような気がする。「あぁ! あの時の出来事は、このためだったのかぁ・・・」とか、まさしく【人生は ジグソーパズル】だと実感する。人生の出来事の各『ピース』を日々コツコツはめ込んでいるうちに、ある日突然、全体像が見えてくるのである。数日前、店内の郵便物を整理していると、なぜか一枚のハガキが目に留まった。菩提寺からの連絡ハガキだった。さらっと目を通していると「西南の役の砲弾」という単語が目に飛び込んできた(下の写真)。

日蓮宗の他派にも広く知られている不受不施(ふじゅふせ)派の高僧・日浣上人のお骨が島原の妙高寺に埋葬されている、と布津町のお寺の住職から聞いたことがある。不受不施派とキリスト教は江戸幕府によって二百数十年間、信仰を禁じられ過酷な弾圧に遭った。人吉にあった日浣上人のお骨と墓碑とそれを破壊した砲弾は、日正聖人の手配によって島原に持ち込まれ、明治20年に九州で初めて誕生することになる不受不施派の寺
妙高寺の建立に、信徒の一人として奔走した初代・信平が、砲弾だけを自宅に持ち帰ったのではないか?・・・・



「え?・・・これはひょっとして我が家の中庭に昔から置いてある砲弾と何か関連があるのでは?・・・」と思った。十数年前に来店した歴史に詳しい客が、中庭の砲弾を見つけて「これは西南の役で使用されたアームストロング砲の砲弾です。しかも、西郷隆盛率いる薩摩軍が使用したものです。なぜここにあるのですか?」と聞かれ「さぁ?・・・昔からこの位置に置かれていますが、理由はわかりません」と答えたのだった。西南の役は明治10年(1877年)に勃発した。我が家の初代・猪原信平(のぶへい)が、現在の岡山県井原市から島原に来て金物店を創業したのも明治10年と聞いている。「いったい誰がどんな理由で、この西南の役の砲弾を中庭に置いたのだろう?」という疑問をずっと持ち続けて来た。

今から9年ほど前(平成18年)、東宝のプロデューサーだった市内在住の高城二三男氏が書き下ろした朗読劇『信平 走る』を、速魚川ギャラリーで上演していた。高城氏にアームストロング砲の話をしたら、この謎をモチーフにして『信平 走る』第二段【戦雲編】が誕生した。そして同年の5月27日に上演されたのだった。≪ 島原に向かう信平は、佐賀路で明治政府の密偵と間違われて捉えられ鹿児島に連行される。そこで信平は西郷隆盛と運命の出会いをすることになる ≫ 以下に、台本の冒頭部分を紹介する。


                                  【 一 】
 
「速魚川」の坪庭の片隅には、昔から一個の錆びた鉄の砲弾が置いてある。
主人は亡き父から「西南の役」で使用された大砲の弾であると聞いていた。
初代・信平がこの地・島原に来たのも西南の役の年、即ち明治十年である。
主人は、父が言った「西南の役の砲弾」の真偽や詳細を調べたくなり、
市内在住の郷土史家である本田宗也氏に調査を依頼したのだった。
本田氏は砲弾を手に持ち、しばし凝視した後「4、5日これを貸してくれませんか?」
と言ってその砲弾を持ち帰った。     数日後、その砲弾を持参した本田氏は、
「結論から言うと、まさしく西南の役に使用された砲弾です。」と断言した。
本田氏によると「アームストロング砲の砲弾である。 
アームストロング砲とは、
英国で1855年に開発され、その後の近代後装砲の先駆けとなったものである。
日本で最初に使用されたのは、1863年(文久三年)の薩英戦争の時で、

薩摩の小型四斤山砲を圧倒的に凌駕した。   薩摩兵は落ちた砲弾を見て驚いた。
自軍の砲弾は旧来の円弾であるが、英軍のそれは先が尖った円筒形の弾であった。
のちに言う尖長弾である。 射程距離は円弾が千メートルに対し、なんと四千メートル。
その上、砲弾の周囲十二箇所に鉛が詰められており、着弾すると内部の火薬が爆発して
鉛の弾が周辺に飛び散り、人馬への被害を甚大にする。   薩摩藩は驚愕した。
戦い方が一新したことを認識して、すぐに英国に大金を払いアームストロング砲を輸入した。
その当時、薩摩はすでに製鉄所を所有していた。 今で言う集成館工場群の中にあった。
輸入した大砲を徹底的に分析し、わずか数年後にはアームストロング砲を創り上げた。
幕府はまだ旧式大砲しか持たず、その後の鳥羽伏見、上野彰義隊も薩摩、鍋島軍の
アームストロング砲の威力に為すすべなく大敗を喫する。」以上が本田氏の説明であった。
初代・信平は何故、西南の役の砲弾を島原に持ち帰ったのか?
  
            
            【 二 】
 
その後の信平の足取りを追おう。
小倉で連絡船を下船した信平は長崎街道に入った。 長崎街道は小倉長崎間の五十四里で、
宿場が五十二箇所で繋がれていた。  幕末、長崎街道は重要な役割を果たした。
文政九年(1823年)、シーボルトもオランダ使節参府随員としてこの街道を通り、
長崎で海軍術を学んだ勝海舟、海援隊を設立した坂本竜馬や初代総理大臣・伊藤博文など、
長崎街道はこれら維新の志士達の熱い思いを見守ってきた。
筑前原田(はるだ)宿を過ぎ、田代宿からは佐賀路である。    
 
猪原家にある資料、嶋原藩士・水谷勝兼記するところの「御徒場(おかちば)附」
(文化十三年・1831年)によると、佐賀路の宿は、田代から嬉野までの十三宿である。
佐賀路に入ると、筑後川で育まれた肥沃な平野が延々と広がり、
今は刈り入れも済んだ広大な田の連らなりが果てしなく続く。
明の海から筑後川へと
渡ってくる風が、遮る山々が全くないのでまともに旅人に襲いかかる。
秋の風は、ここ九州でもすでに冷たくなっていた。
信平の旅姿は、菅傘を被り、急な風雨の対策にマント状の「引き回し」と呼ばれるものを
羽織り、脚絆(きゃはん)を足に巻き、草鞋(わらじ)を履いている。
すこし大きめの振り分け荷物に《青龍の掛け軸》の木箱を背中に渡していた。
江戸年間の旅人姿と変わらない。    
折からの強風で信平の合羽の裾は舞い上がっていた。
しかし委細かまわず先に進む信平であった。

 
 
               【 三 】
 
佐賀路は田畑を通す一本道である。   行き交う人ももう居ない。  秋の日足は早い。
辺りは暗闇に包まれようとしていた。  卒然と雨までも降ってきた。
さすがに信平も足を止め、雨宿り先はないか辺りをうかがった、が適当な所はなさそうである。
また半丁程歩いた。 と、小さな祠(ほこら)らしきものが薄闇の中に浮かんで見えた。
幟(のぼり)が二棹、祠の左右に立っている。 具合がいいことに軒が出ていて雨が防げそうだ。
祠というより小さくても立派な社(やしろ)であった。信平は入り口の木の階段に腰を落ちつけた。
雨の音しか聞こえてこない。  少し安堵した信平に睡魔が襲ってきた。
どれぐらい眠ったのだろうか?   信平はかすかな人の気配でフッと眼が覚めた。
と、その刹那、腹に当て身を食い、気絶した。                                         
気がつくと、知らない家の座敷牢にころがされていた。
身の回りのものは全て奪われている。   あの《青龍の掛け軸》もない。
「お〜い、誰か!」と、信平は廊下と部屋を遮断している太い木の格子を掴み、
外に向け大声で叫んだ。二度、三度繰り返した。 すると奥から人が来る足音がした。
「これ、大声を出すでない!」と制しながら四十がらみの男がやって来た。信平はその男に向かって、
「一体どういうことだ? 今すぐここから出せ!」と抗議した。
「そうは いかぬ。」
「何故だっ、何ゆえあって俺を押し込める!」
「訳はある。」
「どんな理由か?」
「まぁ まぁ 今から詮議が始まる。」
「詮議?」
「我らがお頭様が見えるから、其処で今しばらく待っておれ。」と言うとまた奥へ戻って行った。

 
 
  半刻後、今度は五人の人間がやって来た。  なんとその中の一人は女だった。
「これ 起きろ。」
「何だ」
「こちらの方が、お頭様だ」と女の方に目配せした。女は浅黄色の内掛けを纏い、どう見ても旅姿であった。  
年のころ三十四、五、柔和な瞳をしていて、悪党には見えない。

五十がらみの男が主に信平に質問した。出身地、旅の目的、行き先、等である。
信平は必死になって、今までの経緯を説明した。
しかし不当な拘束をした一味の方に非はあるとの思いに駆られ、
「何故こんな非道なことをする、俺は納得がいかん」と言うと、頭目である女が初めて口を開いた。
「貴方の主張は分かりました。」
「ならば出してくれ。」
「それは まだ。」
「何故だ、分かったと言ったではないか!」                                            
「言い分が分かったと申したまでで、貴方への疑いが晴れたわけではありません。」
「何の疑いか」
「政府の密偵ではないか、という」
「えっ! 密偵!  ち、違う!」
「貴方は我等と、ある所へ同道して、我等のお使えする方の審判を受けなければなりませぬ。」
「その人はだれだ!」
「今は言えませぬ。」と微笑みながら女は言った。
「明日から我々と旅立ってください。」
「何処へだ。」
「薩摩です。」
「さ つ ま?」
 「そうです。」
「行かぬっ!」
「ならば ここで死んでもらいます。」と、眉を引き締めながら女は静かに言った。
信平は、おめおめと得体の知れない一味の脅しに服従する屈辱が耐えられなかった。
しかし、重大な任務の遂行の途中で死ぬことは絶対に出来ぬ、と煩悶しながら激しく葛藤した。
が、やはり生き抜いてなんとしても任務を遂行する、と覚悟を決めた。
「分かった・・・・薩摩へ行こう。」

 
               【 四 】
                                                               
翌朝のまだ暗い内に一行は旅発った。《青龍の掛け軸》と黄金は一味の誰かが持っている様子はなかった。
信平はわが身の不覚を悔やんだが、今は囚われの身、いかんともしがたかった。
一行は有明海沿いに熊本を経て、日奈久、水俣を通り薩摩の入り口である出水(いずみ)に到着した。
七日間の旅程であった。  途中、脱出の機会はあったが、薩摩で一味の大将とやらに
わが身の疑いを晴らし、青龍の掛け軸を取り返すまではどうしても薩摩に行かねばならなかった。
出水に一泊した。宿屋で信平は一部屋与えられたが外の廊下には男が二人ずつ交代で見張っていた。
寝支度を整えようとした時、障子が開き女が入って来た。
「明日ここに、或る方が尋ねてきます。」
「どなたですか?」
「篠原国幹(しのはら・こっかん)さんです。」
「え?  あの近衛大隊長の?・・・その方が尋問するのですね?」
[はい。]
「・・・・分かりました。」
 「私はここまで来る道中、貴方をずっと見ていて、少しだけ疑いが晴れました。」
「そうですか。」
「はい、貴方の挙動には少しの曇りもない。」
「ですから、初めから政府の密偵ではないと言っておるのです。」
女は艶然と微笑みながら出て行った。
翌朝、早い時間帯に篠原国幹はやって来た。
「篠原さんが参られた。」
「分かりました。」と信平は居住まいを正した。
「篠原です。」

「猪原信平です。」
「国幹です。  こん度はお疲れ様でごわした。」
篠原は頬骨が高く秀で、眼光鋭く、背筋が伸びた偉丈夫の男であった。
「元武士として疑いを晴らすまでは、と思いまして。」                                       
「おはんの事は、島さんの未亡人にいろいろ聞きもした。」
「あの方は、島といわれるのですか?」
「おんしの疑いは、もう晴れもした。」
「えっ、詮議があるのでは?」
「もう よかでっしょ。」
「もう いいといわれると?」
「詮議なし、という意味でごわす。」
「詮議なし、ですか?」
「ちょっとでん 疑いばぁ 持っちょたら 直ぐ斬り申した。」
「・・・・・・・・・」

 





高城二三男氏の書き下ろし朗読劇『信平 走る』は、平成22年(2010年)7月17日の第十三段「亜細亜動乱編」まで約4年間、13作品が連作され上演された。奇しくも、同年、鹿児島市役所から「まちづくり」の講演依頼があった。丁重に断ったが平成25年に再度、市職員がわざわざ鹿児島から来島しての講演依頼を断れず、この年の10月に鹿児島に行くことになった。時代や形は違うが、高城氏が書いた『信平 走る』第二弾【戦雲編】と同じように、信平の子孫(つまり小生)は、薩摩藩(つまり鹿児島市役所)の人間から鹿児島に誘導されることになった。そこで、子孫はレトロフトの永井明弘氏(つまり西郷隆盛)と運命的な出会いをすることになったのだ。

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そして【戦雲編】のストーリーとまったく同じように、アームストロング砲を製造した反射炉跡を含む「集成館」跡に主人公・信平の子孫も連れて行かれることになった(下の写真)。速魚川の中庭に明治初期から置かれていたであろうアームストロング砲の砲弾は、140年前に間違いなくこの場所で製造されたのである(!?)。



             【 五 】
 
 翌朝、信平は鹿児島・吉野町の工場群にいた。
「篠原さん、ここではどんなものを作っているのですか?」                                    
「反射炉を中心に、大砲、火薬、陶器、ガラスの器などです。」
「反射炉とはどういうものですか?」
「あの高い煙突のある建物でごわす」
見上げると、二十mもあろうかと思える二基の煙突から、もうもうたる煤煙が空へ吹き上がっていた。
信平が見たこともない光景であった。
「鉄の原料に直接火を当てて溶かすと不純物が混じり申す。周りの煉瓦に火を当てて、その反射熱で原料ば溶かす。 そいで反射炉というそうです。」
朝廷は「黒船来航」でその近代兵器、それも鉄の威力に腰をぬかし、各藩に「お寺の梵鐘を壊して鉄砲を作るでおじゃる」と朝令を出した。  近代製鉄の先駆けは「鍋島」であったが、「反射炉」製鉄法はここ薩摩が日本初であった。 
信平は青空に黒々と二筋の黒煙を描く反射炉の双連2基の煉瓦
の壮大な工場を見上げながら、「鉄の時代の到来」を強く意識した。
自分の拠って立つ生業も、この「鉄」に関わりのあるものを、と確信しはじめた。

  












 
              【 十 】
 
その年の秋、信平は長崎にいて西郷自刃を聞いた。   その夜、信平は男泣きに泣いた。
西郷の姿が 篠原の姿が ぼうぼうたる火炎が 爆裂音が 脳裏に現れては消え、消えては
現れてきた。
その後、《朝敵》と言われた西郷が名誉を回復したのは、十五年後の明治二十五年であった。
日蓮宗・不受不施派の命運と深く通じるものがある。
 
明治十年九月二十四日午前4時、城山にて、お付きの別府晋介に「晋どん もう ここでよかろ」と言い、座を正し、遥かに東方を拝礼し静かに目を閉じ、褌を両手で押し下げ、右手に軍刀を持ち、左手で下腹を揉み柔げた。刀を前に廻し、腰を持ち上げ、下半身が刀先にかかるようにして、身体を押し込んだ。 
血が流れ出した。 「晋どん・・・」とかすれた声で言った。

別府は「ごめんなったもんし!」と叫ぶや一刀のもとに西郷の首を切り落とした。
西郷隆盛、享年五十一歳。  西郷は死んだ。
しかし、天翔ける《青龍》は、西郷と信平の思いをすでに果たしていた。
先立つ、五月十四日 大久保利通は宮中に赴く途中、刺客に襲われ死亡。
    五月二十六日 木戸孝允は京都で病死。
西郷を追い詰めた新政府の重鎮二人は、いずれも非業の死を遂げていたのだった。
  
     英雄の最期を詠う。 西道仙・作 「城山」                  
                                          
       孤軍奮闘 囲を破りて還る  一百の里程 壁の間           
       吾が剣は 既にくだけ 吾が馬はたおる。                
       秋風 骨を埋む  故郷の山                      
 

                     城山
                   孤軍奮闘破囲疳
                   一百里程壁間
                   吾剣既吾馬斃
                   秋風埋骨故郷山
 
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